和は待遇改善を要求し、解任される
だが、医局を通さず教授に直訴したことが、医師たちのプライドを傷つけた。自分たちの頭越しに佐藤へ建議書が渡ったことに彼らは憤慨し、和の解任を求める声が医局内に湧き起こる。当時、病院での医師と看護婦の関係は「主人と召使」に近かったという(村上信彦『近代史のおんな』)。これだけの騒ぎになっては、佐藤にもはや和を庇う余地はない。医師たちの声を容れ、和を看病婦取締から解任して事を収めた(青山誠『大関 和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』)。
役職を解かれても病院を追われたわけではなく、一看護婦として残る道もあった。だが大半の医師を敵に回したいま、和は明治23年(1890年)11月、わずか2年で第一医院を去ることを選ぶ。3カ月後には、内科の看病婦取締だった鈴木雅(直美のモチーフ)も同院を退いている。
和が去った後の帝大病院では…
皮肉なことに、和が去ってまもなく、第一医院では看病法講習の聴講が許され、成績優秀者に卒業証書を与える規定までできた。和が建議書で求めた看護教育の充実は、彼女を追い出したあとに形になっていったのだ。看護を専門職として認めるかどうか。そこに、佐藤と和を隔てる一線があった。ドラマの「友達や家族としてなら理解できる」という今井の言葉は、患者に寄り添う看護が医療の秩序とぶつかった時代の軋みを、よく言い当てている。
佐藤は、俳人・正岡子規の手術も手がけている。明治30年(1897年)、腰の痛みを訴えた子規を診て、当初疑われたリウマチではなく脊椎カリエスと見立て、二度にわたって腰の腫物の膿を抜いた(子規庵「正岡子規について」、国立国会図書館レファレンス協同データベース/『子規全集』書簡・略年譜に基づく)。その前後の様子は、子規自身の書簡にも書きとめられている。注目したいのは、この手術のあと、同年6月に子規のもとへ日本赤十字社の看護婦が約1カ月入っていることだ(叔父・加藤拓川の出資)。執刀した外科医と、療養を支えた新しい看護とが、子規という一人の患者のそばで出会っていた。


