人間はなにか行動するときに、「~のために」と理由をつけがちだ。たとえば、仕事をするにも「お金を得るために」「家族を養うために」と目的をつけたがる。それでは辛く感じるのは当然である。なぜなら、「~のために」と考えた時点で、自分を目的のために道具にしている。自分を道具化すると必ずや、犠牲者意識が生まれる。思い通りにならないと相手のせいにしたくなり、うまくいけば「自分のお陰だ」と慢心し、恩を着せたくなる。

このことは料理に例えるとわかりやすい。「家族のために料理をする」と考えると、もし残ってしまったら虚しくなって、愚痴の1つも言いたくなる。それが「料理をしたいから作る」「楽しいから料理をする」であれば、主体は自分にあるのでたとえ残されても文句はない。

仕事であっても誰かのため、何かのために働くのでなく、「どうしてもこの仕事をしたいから働く」と考えれば不平不満は出ようがない。仕事が面白いから働くとなればなおいい。自分の思考から「~のために」という思考を排除することが大切なのだ。

もちろん、人生においては、リストラや会社の経営破綻など自分ではどうしようもない事態も起こる。そこから新たな一歩を踏み出すには、ニーチェの遠近法的思考が役立つ。

人間は自分にとって関連が深い事柄は大きく見え、重大に感じる。一方、関連性の薄いことは小さく見え、軽い出来事に感じる。このような価値判断の仕方こそ、人間の認識の本質である、とニーチェは考えた。『曙光(しょこう)』の中ではこう書いている。

「ときには、遠い視野というものが必要かもしれない。

たとえば、親しい友人らと一緒にいるときよりも、彼らから離れ、独りで友人らのことを想うとき、友人らはいっそう美しい」