宮沢賢治は1896年、現在の岩手県花巻市で質・古着商を営む裕福な家に生まれた。盛岡高等農林学校時代、地質調査研究のかたわら、同人誌を創刊し本格的な文学活動を開始。卒業後は東京で下宿生活をしながら法華宗・国柱会の活動にも勤しんだ。そんな中、最大の理解者であった妹トシを結核で亡くした悲しみが、『銀河鉄道の夜』をはじめ、後の作品に大きな影響を与えたといわれる。
トシの看病のため岩手に帰った後の賢治は、農学校の教師として働きながら創作活動を続け、1924年には『心象スケッチ 春と修羅』『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』を自費出版。しかし、ほとんど注目されず、生前に刊行された作品は結局この2冊のみだった。その後はボランティアの農業指導にも情熱をそそいだが、28年に急性肺炎を発病。33年に永眠。享年37。生涯禁欲と独身を貫いた。
作家・宮沢賢治が正当な評価を受けるようになったのは、没後、遺された作品群が発表されてからである。その世界観の根底には、自らの裕福な出自と農民の困窮との対比から生まれた贖罪意識や自己犠牲の精神がある。一方、岩手をモチーフにイーハトーヴという架空の理想郷をつくり上げ、自然との交感を描いたことも作品の大きな魅力となっている。
「銀河系」を自らの中に意識する
宮沢賢治は、奇しくも明治三陸地震の2カ月後に生まれ、死の半年前には昭和三陸地震に遭遇しています。東日本大震災では賢治の愛したイーハトーヴ=岩手県が再び甚大な被害を受けました。幾層にも重なった深い悲しみの底から湧き上がってきた賢治の言葉は、震災後のいまの日本にとって、限りなく大きな意味を持っているように思います。
宮沢賢治は「本当の幸せ」が何かを生涯を通して考え続けた人でした。『銀河鉄道の夜』の中には「さいはひ(幸い)」という言葉が何度も出てきます。ジョバンニとカムパネルラは死者を乗せた悲しみの列車の中で、「ほんたうのさいはひはいったいなんだろう」「きっとみんなのほんたうのさいはひをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう」と語りあいます。「たゞいちばんのさいはひに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです」「なにがしあはせかわからないです。ほんたうにどんなつらいことでもそれがたゞしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんたうの幸福に近づく一あしづつですから」とも語ります。