実は秀長の息子の妻だった

森千丸忠政の後妻となった秀長の養女は、はじめ秀長の子・小一郎の妻だったが、小一郎が早くに亡くなったため、その養女になったらしい。実父は那古野なごや因幡守敦順である。『群書系図部集』所収の「織田系図」によると、敦順の妻は信長の一族・津田家の出身で、中川八郎右衛門重政、津田隼人正盛月、木下雅楽助うたのすけの姉妹にあたる。

そもそも、木下藤吉郎秀吉がなぜ木下姓を名乗ったのかは定説がなく、従来は実父が木下姓だったからという説が主流だったが、黒田基樹氏は『明智軍記』の記述から「信長馬廻衆の木下雅楽助の寄子に配属され、(中略)寄親の木下雅楽助から木下苗字を与えられ」(『羽柴秀吉とその一族』)たとする。

子孫は播磨赤穂藩2万石の大名に

敦順の次男・那古野山三郎は「勝れて美麗」「無双の美少年」「美麗の器量」と称され、歌舞伎の創設者・出雲の阿国おくにを妻にしたとの俗説がある。那古野家は、秀吉の甥・小一郎の妻に釣り合うような家柄には到底思えないが、その兄が「美麗の器量」だったのであれば、かなりの美人だった可能性が高い。小一郎の死後、養女として秀長の許に留め置かれたのも、そういった文脈から考えると納得がいく。

鶴山公園にある森忠政の銅像
鶴山公園にある森忠政の銅像(写真=Chacmool/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

なお、森忠政は慶長5(1600)年2月に兄の遺領ともいうべき北信濃四郡13万7500石を与えられて川中島城主となり、慶長8年2月に美作津山藩18万6500石に転封となった。先述のように養孫・森衆利が発狂していったんは改易されたが、養父(忠政の養子)の森長継ながつくに改めて播磨赤穂藩2万石が与えられ、子孫は同地を領したのだ

【図表】森家の系譜
筆者作成
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