長男は「鬼武蔵」と呼ばれた猛将
可成の長男・森武蔵守長可(長一)は俗に「鬼武蔵」と呼ばれる猛将である。父が討ち死にして、わずか13歳で家督を継ぎ、兼(金)山城主となった。信忠軍に従い、天正10(1582)年の武田攻めでは、信濃飯田城、高遠城攻略に参加。武田家滅亡後の4月に北信濃四郡(高井、水内、更科、埴科)を与えられ、海津城主となる。
末っ子はケンカで実家に戻された
兼山城主は弟の森蘭丸が継いだが、6月の本能寺の変で弟の坊丸・力丸とともに討ち死にを遂げた。かれら兄弟はみな信長側近の小性として使えていたが、末弟の千丸は同僚といさかいを起こして母の元に戻され、難を逃れた。
本能寺の変の折、長可は越後上杉家と対峙しており、変を聞くとすぐさま撤退して兼山城に戻った。妻が池田恒興の長女だったので、本能寺の変後は義父とともに秀吉につき、小牧・長久手の合戦でともに討ち死にを遂げた。出陣に際して、娘は武士ではなく医者に嫁がせるように遺言をしたためたことで知られているが、『寛政重修諸家譜』など諸系図に娘の記載はない。
森千丸忠政の後妻は「秀長の養女」
長可が討ち死にすると、唯一生き残った末男の森千丸忠政がわずか15歳で家督を継ぎ、兼山城主となった。和田裕弘氏は「忠政は、柴田勝家の娘を妻とした塙直政の養子となった。これは、可成が勝家と親しかった関係からだろう」(『織田信長の家臣団』)と記している。
妻は中川清秀の次女で、清秀の長女が池田輝政(恒興の次男)夫人だったことから縁談が進んだものと思われる。ただし、清秀の娘は第一子(長女)出産の後に死去したようで、後妻に豊臣秀長の養女を迎えている。
森忠政は慶長5(1600)年2月に兄の遺領ともいうべき北信濃四郡13万7500石を与えられて川中島城主となり、慶長8(1603)年2月に美作津山藩18万6500石に転封となった。養孫・森衆利が発狂して改易されたが、養父(忠政の養子)の森長継に改めて播磨赤穂藩2万石が与えられ、子孫は大名として存続した。
赤穂浪士で有名な赤穂藩は浅野内匠頭長矩の刃傷事件で改易になったが、最終的には森家が受け継ぎ、幕末まで続いていったのだ。



