弟を救い、子は引き取り、同棲女性には目もくれず
以前の記事で、和が新聞「毎日電報」に掲載された見習い時代の談話を紹介した。自らが患者たちに「天使」かのように思われたことを語っていたことに触れたが、あながち間違いではないかもしれない。
(参考記事:コンプラ重視のNHKでは絶対に描けない…「風、薫る」看護婦見習いの大関和が新聞に暴露した病院実習の内実)
しかし、和の魅力は美しさだけではない。いや、むしろ美しさなど、和の魅力の一割にも満たない。
和が目の離せない人物である本当の理由は、献身的で優秀かと思えばダメなところはとことん酷い、その凄まじいデコボコさにある。高橋の論考には、こんなエピソードも記されている。
大関家を継ぐはずの弟(長男)は、独立後、挫折し、居所も不明となっていたが和のところに連絡があったときは、スラム永田の一室で赤貧と病床に喘ぎ、同棲していた女性との間に一子をもうけていたという、こうした時の和の対処の仕方は、まことに男性的で、てきぱきとし、弟は即時入院させ、子どもは家族の一員として自分がひきとり、同棲していた女性には目もくれなかったという。
容赦ない“デコボコさ”
……これは高橋氏が和の義理の姪から聞き取ったというエピソードだ。
弟は救う。子供も引き取る。
しかし同棲していた女性には目もくれない。
てきぱきと、である。
ようは、自分の判断軸で「救う対象」と「救わない対象」を瞬時に仕分けして、迷いなく実行する。同棲相手の女性からすれば、突然現れた義姉に子供だけ持っていかれて完全スルーという、なかなかの地獄である。
しかし和にとって、これは当然の判断だったのだろう。弟は身内。子供は無辜の命。同棲相手は……縁のない他人。ようは献身的に接する対象は全方位ではない。上級武士の生まれと、信仰から熟成された独自の価値観に基づいて、献身する相手は自分で選ぶ……だから対象にされた人は「ここまでしてくれるなんて‼」と和を崇拝するほどだ。でも、その対象にされなかった人は地獄であろう。
このデコボコさは、家族にも容赦なく表れている。
長男の六郎は、和の愛情をほとんど受けることがなかった。もともと、和が福之進と離婚した際に、六郎は男子ということもあってすぐには引き取ることができなかった。後にようやく手元に置くことができたが、和は苦労して取り戻したはずの息子に、愛情を注がなかった。

