法医学者でも死体は得意ではない

法医学の「法」とはいうまでもなく、「法律」を指します。法医学者とは、法律がかかわる諸問題において医学的知識を提供する医師です。いい換えると、法律と医学がかかわる一番大きな案件が「人の死亡事案」であり、そこに事件や事故がかかわっているのかを医学的に解明するのが法医学者であり、そのためのおもな対象が「死体」ということになります。

犯罪現場
写真=iStock.com/ilbusca
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この仕事をしていると「死体は得意なんですか?」と聞かれることがありますが、答えは「いいえ、得意ではありません」です。死体が好きで、得意だからやっているわけではなく、事件や事故の原因を探るために誰かが死体を解剖する必要があるため私がやっているだけです。いわゆるお医者さん(一般臨床医)と法医学者の最大の違いは、治療をするかしないかでしょう。

治療が生きている人間を救うための前向きな行為であるのに対して、死体解剖は過去になにが起きたのかをレトロスペクティブ(うしろ向き)に解明します。その矢印の違いこそが、一般臨床医と法医解剖医が決定的に違う点です。

ごくまれにですが、ほかの専門分野の医師が法医学者に転身することもあります。救急医だったBさんは、法医学の世界に鞍替くらがえした経歴のもち主です。生命の危機にひんした患者に緊急処置を行うことが多い救急医は、それこそ「死にゆく人」を数多くみる最前線のポジションです。

死体からわかることが次の現場の学びになる

しかし、1分1秒を争う現場ですから、「救命できなかった患者」に関しては、立場上、死因を究明することまではできなかった。Bさんの場合も、「結局のところ、なにが死因だったのかは不明だが救命できなかった」とのやりきれなさが積み重なったことが、死因の謎を解き明かせる法医解剖医になった動機の1つだったそうです。

救急外来には、さまざまな緊急症状の患者が運ばれてきますから、現場は常に「緊急事態」です。身体の中で大量出血している患者の場合、どこの血管が破れているのかを血の海の中でまず把握しなければならないのですが、それが難しい。吸引しても吸引しても、出血源がわからず、失血死してしまうケースもあります。けれども、皮肉なことに死体となってしまえば、もはや処置を急ぐ必要はありません。

死体は出血しませんから、法医解剖医はたまった血を拭き取り、ゆっくりと出血源を探し当てて、「なるほど、この血管が破れていたのか」と検証できる。後日、救急医、司法解剖医、警察、消防が集まる症例報告会やカンファレンスなどで、「今後、類似の事故では、この血管に注意するといいですよ」とフィードバックをすることによって、各自の現場にも学びが還元されます。

救急医が解けなかった謎を、法医解剖医が探し出し、答え合わせができる。死体からわかったことを、生きている人間にフィードバックできる。これもまた法医解剖医の存在意義でしょう。