大変な日々も「自分のためだから」

「当時の私は材料科学なんて全く知らなかったので、かなり勉強しました。どんなに眠くても予習・復習しないと次の実習についていけないから、必死だった。あとは英語ね。私は医者だったので英論文の読み書きには慣れていたけど、話す・聞くはなかなかできなくて」

搭乗準備中の当時は、学習や実習、研修のプログラムが多い上に、体調、睡眠時間すら管理されていたという。気持ちが崩れることはなかったのだろうか。

「もちろん、学習や実習に取り組んでいるときは大変ですよ。でも、全て自分のためにやっていることだから、明日が来るのが楽しみでした。医師だけやっていたら絶対できない知識や経験を積むことができた、充実した日々だったなあ」

細胞培養実験の講義(左から毛利さん、土井さん、向井さん。1992年)
画像提供=JAXA/NASA
細胞培養実験の講義(左から毛利さん、土井さん、向井さん。1992年)

当時最先端の知識と技術を持った科学者たちが、自分たちの代表を宇宙へ送り込む。そしてそこで得られた実験結果が、また人類を一歩先に進める。科学技術が発達すれば、人間はますます幸せになれるはずだと、当時の向井さんは信じて疑わなかった。

「科学は完璧じゃない」それでも宇宙へ

しかし、訓練開始から約4カ月後、スペースシャトル・チャレンジャー号の大事故が発生する。

「科学は完璧じゃないって、神様にピシャっと頬を打たれたような気持ちでした」

どれだけ科学技術が発達しても、人間がやることに完璧なものなどない。ましてや、スペースシャトルは完成された乗り物ではない。飛行機よりもはるかに高い確率で墜落し、高確率で人命が失われる。頬を叩かれて目が覚めた。

この衝撃的な事故を受けて、向井さんの宇宙飛行士へのモチベーションは変わらなかったのだろうか。

「事故は悲しい出来事だけど、怖いからやめたいという宇宙飛行士なんて、一人もいなかったんじゃないかな。

新型コロナが流行したときの医師や看護師だって、常に自分や家族が感染して命を落とすリスクを抱えて働いていたでしょう? シャトルが墜落するよりもずっとリスクは高いはずなのに、患者さんを助けるために現場を離れなかった。

どんな仕事でも、プロフェッショナルはリスクを受け入れて働いているんだと思います」

さらにこの事故は、向井さんの価値観だけでなく、キャリアをも変えるきっかけとなる。原因究明のため、NASAはスペースシャトル発射計画の中断を発表。1988年に予定されていた日本人宇宙飛行士の搭乗機会も、無期限延期となった。

「それまで私は、3年間でこのプロジェクトが終わったら、また医師に戻ろうと思っていたんです。でもチャレンジャー号の事故で、私の中途半端な態度も神様に咎められた気がしました。『千秋、人生はそんなに甘くないよ、考え直しなさい』って」

臨床医として患者を診ることはなくても、宇宙飛行士として教育や研究の分野で医学に携わることはできる。

当時33歳。改めて「宇宙飛行士・向井千秋」のキャリアがスタートした。