「何のために頑張っているのか」

しかし、そこで別の問いが立ち上がる。では、家族とは何なのか。親とは何なのか。働くとは何なのか。何のために頑張っているのか――と。

ここに共働き子育てモデルの哲学的なパラドックスがある。子どもに会う時間もなく、家族だけで過ごす時間もなく、朝から晩まで、場合によっては土日までも働き、労働だけで生活時間が埋め尽くされる。そうして、働いて得たお金で家事や育児を外部化する。だが、そこまでして維持される家庭とは何なのか。親が子どもと過ごす時間を削り、その削った時間で得た賃金によって、親子の時間の不足を埋める。この循環に対して「何のために生きているのか」という問いが出てくることは、まったく不自然ではない。

かれらは仕事を家庭に煩わされたくないと思っているわけではない。子どもと過ごす時間のすべてを犠牲にしてまで働き、その結果としてようやく生活が成り立つような暮らしそのものに苦しんでいるのである。ゆえにその苦しみの声に「もっとアウトソーシングしやすくしますよ」「家事代行やAI家事ロボットを使いやすくしますよ」「家庭のことに煩わされず仕事に全力投球できますよ」ではまるで答えになっていないのだ。

求められているのは、家庭の時間をさらに効率よく圧縮することではない。家庭の時間を家庭の時間として取り戻すことである。ところが現在の国や政府の政策的発想は、働くために家庭を外注し、外注するためにさらに働くという循環を前提にしている。子育て世帯が疲弊しているのは、まさにその循環そのものなのにだ。

テーブルを拭く人
写真=iStock.com/west
※写真はイメージです

インフレで「二馬力でもカツカツ」

ともあれ、これまで全社会的に肯定され目指されてきた「女性も当たり前に働いて、働きながら子育てもやっていくべきだ」というロールモデルに対して、SNS上で主に女性側から「さすがに無理があるのでは?」という声が、今までにないほどはっきりと言明されるようになってきたのは注目に値する。共働き子持ち世帯の女性たちのこうした「本音」が可視化され、また大きな賛同を集めるようになったのは、ひとつの時代の潮目が変わったことを感じさせるからだ。

この気づきを加速させたのはおそらくインフレである。物価上昇、円安、住宅価格の高騰、教育費や生活費の重さによって、二馬力で働いてもなお「ふつうの暮らし」に届きにくいという感覚が広がった。自分たちの親や祖父母の時代には男性大黒柱の一馬力でも成立していたはずの生活が、いまでは二馬力でもカツカツだ。夫婦で馬車馬のごとく働き、働いたカネで家事育児を外注してまた働く。「何のために働いているのか?」という問いが出てくるのは当然である。