3億9000万円が発表前に“完売”した
マクラーレンというブランドの本質を理解するには、「3つの“1”」を知る必要がある。
最初の「1」は、1992年に登場したマクラーレンF1だ。
32歳の若さでこの世を去った、創業者ブルース・マクラーレンの遺志を継ぎ、F1の技術をすべて注ぎ込んで作られた初の市販車だ。
市販車として世界初のカーボンファイバー製モノコックを採用し、BMW製V12エンジンを搭載。最高速度は386.4km/hを記録し、当時の世界最速量産車となった。生産台数はわずか106台。現在の中古市場では20億円を超える値がつくこともある。
2つ目の「1」は、2013年のマクラーレンP1。
スーパーカーの世界にハイブリッドの概念を持ち込んだ先駆的なモデルで、3.8リッターV8ツインターボに電動モーターを組み合わせ、システム出力916PSを叩き出した。生産台数375台限定、販売価格は約9660万円。フェラーリ・ラフェラーリ、ポルシェ918スパイダーと並んで「ハイパーカー御三家」と呼ばれた1台だ。
そして3つ目の「1」が、2024年10月に発表されたマクラーレンW1である。
完全新設計の4リッターV8ツインターボ「MHP-8」にEモジュールを組み合わせたハイブリッドシステムは、エンジン単体で928PS、システム合計で1275PS、最大トルク1340N・mという途方もない数値を実現した。最高速度は350km/h。価格は英国付加価値税込みで200万ポンド、日本円にして約3億9000万円。生産台数は399台だ。
驚くべきは、この約4億円のハイパーカーが、正式発表の時点ですでに全台売約済みだったということだ。
W1のオーナーたちは、実車に触れることなく、試乗することもなく、購入を決断したことになる。
なぜそんなことが可能なのか。
“哲学”を知る人間だけの権利
その答えこそ、「物語の正統後継者になる」という文脈の力だ。
既存のオーナーの中でも、マクラーレンの哲学に深く共鳴してきた人間だけが、この「物語の続き」を受け取る権利を持つ。
さらに時事的な事実として、マクラーレンの現行の、純V8エンジン搭載モデル(750SとGTS)が、2026年6月末をもって日本市場向けの生産を終了する。し、「絶版」になる。
希少性が価値を高めるのは、世の常だ。しかし、彼らを突き動かすのは「レアだから欲しい」という投機的な欲望ではない。
「終わりがあるからこそ、物語は美しい」という、物語の完結に立ち会うことへの高揚だ。
フェラーリの限定モデルにおけるリセール市場の過熱ぶりは広く知られているし、近年はランボルギーニやポルシェの限定車でも「買った瞬間に利益が出る」といった投機的な語られ方がされることがある。
しかし、マクラーレンのオーナーに限って言えば、「いくらで売れるか」を購入動機として口にする人間が極端に少ない。彼らが語るのは、あくまで走りの質であり、車との対話であり、その先にある物語だ。
マクラーレンのシートに収まるとき、そこにはブルース・マクラーレンが32年の短い生涯をかけてゼロからレースの世界に挑んだ物語がある。アイルトン・セナが1988年に圧倒的な記録を刻み、ランド・ノリスが、2024年のアブダビで涙を流した歓喜がある。
わかりやすい見栄でもなく、スペックの優劣でもない。しかし確実に存在する「文脈の厚み」に自分の人生を接続すること。それこそが、本物の車好きがたどり着くブランド、マクラーレンの、静かな矜持なのだ。



