でも、バイオの世界では、上場を急ぐよりも「エクイティストーリー」と呼ぶ事業展望を投資家によく説明し、定着させることを優先すべきだ、と考えた。自然に考えれば、それが一番、宝のためになる、と思う。持ち株会社化の準備を進める宝を訪ねるたびに、それを訴える。そして、まずはタカラバイオ株の上場ではなく、機関投資家への第三者割当増資を先行させ、「エクイティストーリー」の浸透を図ることを提案する。

当時、いくつもの証券会社が、早期上場の案を持っていっていたようだ。自分たちの提案は、はた目には、まどろっこしく映っただろう。でも、宝は、受け入れてくれた。2003年10月、第三者割当増資が実施される。そのとき、もう東京本社の企業金融担当取締役へ転じていたが、京都を離れるまで「全てはお客様の為に」の思いで通い続けたことが、結実した。1年2カ月後、タカラバイオ株は東証マザーズ市場へ上場される。

京都では、エレクトロニクス企業の買収案件も、手伝った。こちらも、自然体で接したのが、よかったのだろう。ロータリークラブの会合で、たまたま、その企業の会長と隣の席になった。それがきっかけで親しくなり、飲みにも連れていってもらう。会長はいろいろと考えていた時期で、支店の部下に経営戦略の提案書をつくらせたら、ぴたっとはまったらしい。資金調達などのまとめ役を務める主幹事証券に、選んでくれた。

京都支店は92年夏から3年近く、営業課長席にいたこともあり、思い出深い。いまでも京都へいく機会があると、うれしくなる。第二の故郷のようで、社内には「京都出身」と勘違いしている人もいる。

実は、京都支店長を内示されたとき、人事担当役員のところへいって、取り消しを求めた。入社して以来、自ら希望した異動は、1つもない。人事とは、そういうものだ、と思う。ただ、このときだけは「こんな人事、撤回してくれ」と言った。個人客向け営業が大半の岡山支店長から本社の事業法人部へ転勤し、転職したような大変化に苦労した。やっと慣れ、「この世界でも、何とか生きていけるかな」と思い始めた矢先に、京都へいけと言われた。役員への登竜門となっていた役職だけに、人事担当役員は驚き、「断るなんて、あり得ない」のひと言で片づけた。