※本稿は、繁田雅弘『認知症になって幸せな人、不幸せな人』(PHP研究所)の一部を抜粋・再編集したものです。
「わかっていない」けど、幸せ
もう何年も私の診療所に通っている親子がいます。
お母さんは、「病識」(患者自身が『病気』を正しく認識・自覚すること)が弱く不安定です。そういう方もいます。
「『ちょっと忘れっぽくなった」って、本当はわかっているんじゃないの?」と聞いてみると、「私は全然、大丈夫です」と穏やかにおっしゃいます。
「娘さんは働いているから、お昼は一人ですよね。自分で作れるの?」と聞くと、おそらく料理はまったく作れないと思うのですが、「はい、できますよ」と言って、ニコニコしています。
「毎日楽しいですか」と聞くと、「幸せでやっています」とおっしゃいます。
このケースの場合は、本人と家族から別々に話をうかがっています。もちろん、必要に応じて一緒に話をうかがうケースもあります。
娘さんが当初、介護がつらかったこともあったので、先にお母さんの話を聞いて、次に娘さんの話をうかがいました。
「お母さん、やっぱりもの忘れのこと、全然自分では意識してないね」と伝えると、娘さんは「やっぱりそうですか」と言います。
「これでいいよね」と尋ねたら、「そうですよね。『私はなんでこんなにもの忘れをするんだろう』と落ち込んでしまうよりはいいですよね」と、娘さんもようやく穏やかな表情をするようになっていました。
元会社役員の男性(74)の場合
脳の障害が早い段階で前頭葉に及ぶと、病識が弱まって、客観的に自分を見ることができなくなります。
もちろん、いつか気がついてショックを受けそうであれば、ちょっと予告しておいてもいいかもしれません。でも、このお母さんの場合はそれを控えました。
また、アルツハイマー型認知症と診断されたある74歳の元会社役員の男性は、初診から数年が経過していましたが、ずっと自分が認知症であることを認めませんでした。妻の強い希望で、しぶしぶ服薬してはいましたが、自ら進んで服薬することはありませんでした。
本人からは「認知症ではないと自分に言い聞かせて、気持ちを張って頑張っている。認知症であると認めたら、力が抜けてダメになってしまう」との訴えがありました。自分が「病気である」とは認めなくても、病識に近い感覚はあったのでしょう。
この方に、画像診断や神経心理検査の結果を突き付けて「病気である」と認めさせることに、治療的に好ましい意味があるとは思えませんでした。

