半数以上が「まず自分に告知してほしい」
「どう告知をしてほしいか」について、当事者にアンケート調査したものがあります。(※)
※筆者註:日本認知症ケア学会大会/2024年/「医療機関における認知症本人への告知の現状と希望~認知症疾患患者の告知に関するプロセスの研究から~」半田幸子、繁田雅弘
一番多いのは「医師からまず自分に言ってほしい」「家族に話すかどうかは自分に聞いてほしい」(合わせて52.3%)というような回答でした。
病院に来る際も、本人が自分で気がついて家族に一緒に来てもらうケース、一人で来るケース、家族など周囲に勧められて来るケースなどの答えがありました。
「家族など周囲に勧められて来るケース」の場合には、本人が「まず家族に言ってから、自分にどう話すかを相談してほしい」 (23.5%)というような答えも多かったようです。
おそらく、本人の中ではまだ整理がついていないのではないでしょうか。
病気について、本人に告知をすべきかどうかという議論が学会でもあるのですが、私は議論の意義を感じません。
人によってケースも違うのに、一律に決めることではないでしょう。
それぞれの人について、どのように、何を伝えるかを考えればいいのです。
私は日本は欧米よりも、認知症と成熟したつき合い方ができるのではと感じます。
西洋は一神教のもと、自然さえもコントロールしようと考えるので、認知症と向き合うことはとても苦しいのではないでしょうか。
薬は患者を幸せにするのか
一方で、日本は人間を自然の一部と捉え、自分の力が及ばない状況も受け入れ、生きていこうとします。災害のような絶望をもまずは受け入れ、その中で生きて、ただ静かに「見る」のです。そこが日本人のすごいところだと思います。
しかし日本の認知症治療の現状は、「進行をいかに遅らせるか」ということが主流です。
新薬も開発され、また「遅らせる」ことに関心が向いてきました。
なかなか「諦めさせてくれない」ものです。
進行を遅らせることができたとしても、家族や本人の「幸せ」とは関係がないと感じることは少なくありません。
いくら進行がゆっくりになっても、家族が本人を責め続けていたら、それはとても切ないことです。
「治療をするな」と言っているのではありません。
服薬してもいいし、点滴をしてもいいし、リハビリをしてもいい。
だけど幸せかどうかを左右するのは、そのことではないと伝えたいのです。
退職後間もない60代男性の場合
「認知症でも幸せ」と言う人はいましたが、「認知症になったほうが幸せ」という人に出会ったのは初めてでした。
一部上場企業を定年退職して間もない60代の男性でした。もの忘れが出てきたと自ら大学病院を受診し、若年性アルツハイマー型認知症と診断されました。込み入ったことも筋道立ててわかりやすく穏やかな笑顔で説明され、管理職として社内で広く信頼されていたに違いないと思いました。
男性は「まだまだ病気で苦労の真っ最中にいる人には言えないことなんですけど」と前置きし、「家族のことをいろいろと考えるような自分になれたことがよかったと思うんです」「幸せだと思います」と言いました。
認知症になったことで、「これからどう生きていこうか」「家族や友人は何をしてくれるだろう」「自分がしてあげられることはもうないのか」と、とにかく、いろいろと考えた。
認知症になっていなかったら、こんなふうに思えなかった。
こんなにも、自分と、自分にかかわる人のことを考えられるようになったのは、認知症になったからだ、と言うのです。
「認知症になって楽しい」という気持ちでは、もちろんないでしょう。
「認知症は苦しいです。つらいですけど」と言いながらも、「認知症になった意味があった」と言います。
この男性から、大きな人間としての成熟を感じました。
「人生」を真剣に思える精神的豊かさ
自分だって、長生きしたらいつかは認知症になります。
最初は「なりたくない」から始まるかもしれませんが、でもなってしまったら仕方がない。夫婦やパートナーとの関係、周囲との関係、仕事のことなど、これからの人生を考えるでしょう。
それは、精神的に充実している時間といえます。
「いつまでもハツラツと、若く、元気でいる」「老夫婦が仲睦まじく手をつないでいる」というような幸せではありません。
明日死んでもいいし、死ななくてもいい。
明日、認知症が進むかもしれないし、進まないかもしれない。
そんなことよりも、今、こうして穏やかでいられる自分は幸せだ。
今の自分は、できなくなったこともあるけど、できることもある。
そのことを忘れないで、静かに、穏やかな気持ちで生きられたら幸せだと、私は思います。




