「渋沢財閥」にしなかったワケ

財閥解体で十大財閥の財閥家族が指定された時、渋沢家もその候補に入っていたらしい。ところが、渋沢家が財閥の体を成していないと判断され、除外された。渋沢同族という持株会社らしきものもあるが、財閥本社というより、渋沢家の資産管理会社といった方が適切で、産業界に対する支配力は微塵もない。

百数十の企業を興していながら、財閥化しなかったのはなぜなのか。

それは渋沢栄一のビジネスモデルにあった。渋沢栄一研究家の島田昌和氏は、渋沢の株式所有行動について「まずいくつかの会社を軌道に乗せて配当を行い、自身はその会社の株式を一部売却して、その資金を新たな会社の設立資金にしていった」(『渋沢栄一の企業者活動の研究』)と指摘している。

三菱の岩崎弥太郎とは組まず…

つまり、栄一は限られた資金を、企業設立のために充てることが多く、一つの企業の株式を保有し続けて支配下に置くことはしなかった。企業を設立して利益を得ようとするのではなく、創ること自体を目的としていたのだ(一方、岩崎弥太郎は自分で事業を興したことがほとんどない。いずれも他人が興した事業を譲り受けて急成長させている。だから、創業の渋沢栄一と育成の岩崎弥太郎が組めば天下無敵だったに違いない。実際、弥太郎は栄一に協業を呼びかけているが、栄一は事業方針が異なるからと断っている)。

従って、渋沢系と認知される企業は少なく、『浅野・渋沢・大川・古河コンツェルン読本』では「直系4事業」として、東京石川島造船所(現・IHI)、自動車工業(現・いすゞ自動車)、石川島飛行機製作所(現・立飛ホールディングス)、渋沢倉庫の4社を掲げているにすぎない(これに第一銀行[第一勧業銀行を経て、現・みずほ銀行]も加えた方がよいだろう)。そして、渋沢家はこれら企業の株式をほとんど所有していない。

IHI、いすゞ自動車などにつなげた

しかし、栄一の子・渋沢武之助が東京石川島造船所監査役、栄一の三男・渋沢正雄が日本製鉄の常務、東京製綱の監査役に就いているほか、嫡孫の渋沢敬三が第一銀行常務の役員に就いている。

所有なき渋沢家の役員就任について、「比較的著名な事業の多くは、大川、浅野、古河、大倉等の支配会社への従属関係に立つてゐる(中略)尤も浅野や大川にして見れば、御恩返しといふ意味でもあるまいが、(渋沢)翁の秘蔵つ子を大切に預かつて守り育て、小さい会社ながら女婿や孫どもまで一つぱしの重役になりすましてゐる」(『浅野・渋沢・大川・古河コンツェルン読本』)といわれている。