丸山眞男が批判した「表層的な受容」
外来の思想や言語をどう受容するかという問題は、別の角度からも考えることができます。戦後日本を代表する政治思想家の丸山眞男は、『日本の思想』(岩波新書、1961年)で、日本には西洋のキリスト教のような「思想的座標軸」が欠如していると論じました。外来思想は既存の思想と真に対決することなく、表層的に受容され「無秩序に埋積」されてきた。これを丸山は「思想的雑居性」と呼びました。
丸山のこの洞察は、私たちの英語との向き合い方にも示唆を与えます。日本人が「普遍的」「標準的」と称される英語(例えば、イギリス英語やアメリカ英語)をそのまま模倣しようとするとき、それは丸山が批判した「表層的な受容」と同じ構造を持っているように思えます。その言語の背後にある文化的・歴史的文脈を批判的に検討することなく、形だけを取り入れる。それでは、自分自身の思想的立脚点は確立されないということです。
「日本人英語」のほうが信頼につながる
明石、クリスタル、サイード、丸山――国籍も専門分野も異なるこれら4人の知性は、異なる角度から、重なり合う示唆を与えてくれます。それは、無理に特定の国の英語アクセントに寄せることは、意図せず「その国の文化的・歴史的前提を引き受けた」と受け取られる可能性がある、ということです。アメリカ英語の完璧な発音を目指すことは、場合によってはアメリカ的な価値観の代弁者と見られる可能性もあります。イギリス英語の洗練された発音を身につけることは、旧大英帝国の文化的エリート主義と無関係ではいられません。
それよりも、自分が日本人であることを前提にした「日本人英語」のほうが、話者の立脚点を正直に示し、結果として誠実さや信頼につながる場合が多いのです。なぜなら、日本人が日本人訛りの英語を話すことは、「私は日本という文化的背景から、この問題を見ています」というメッセージを、言葉以前のレベルで伝えるからです。それは対話の出発点としての誠実さを示しているともいえます。
英語コミュニケーションにおいて本当に大切なのは「自分は誰として語るか」だということです。完璧で流暢な発音、ネイティブのような表現を学ぶ時間とエネルギーは、「何を語るか」「どう考えるか」の構築に向けるべきなのかもしれません。日本人としての視点、経験、価値観を、明確な英語で、自信を持って発信する――それこそが、グローバルな場で最も求められている姿勢なのですから。

