英語は誰かの「所有物」ではない
世界的な英語学者デイヴィッド・クリスタル(David Crystal)は、著書 “English as a Global Language”(Cambridge University Press、第2版2003年)の中で、示唆に富む議論を展開しています。「国家的・文化的アイデンティティーの必要性と、互いに言葉が通じ合うこと(intelligibility)の必要性は、しばしば対立するものと見なされがちだが、それは誤解であり、両者は十分に両立しうる」というのが彼の主張です。
クリスタルが提唱するのは、グローバル言語(世界コミュニティーへのアクセスを提供する)と地域言語(ローカルコミュニティーへのアクセスを提供する)を併せ持つバイリンガリズムです。この2つの機能は「補完的(complementary)」であり、異なるニーズに応えるものだと彼は論じます。
さらにクリスタルは、英語がもはやネイティブスピーカーの「所有物(property)」ではないという現実を強調します。世界中で15億人以上が英語を使用し、非ネイティブスピーカーがネイティブスピーカーの3倍以上を占める現在、英語は特定の国や文化に帰属する言語ではなく、真の意味での「国際共通語」となったとすれば、日本人は日本人として、中国人は中国人として、それぞれの文化的アイデンティティーを保ちながら英語を使えばいい。これが、クリスタルの論から導かれる一つの結論です。
「ネイティブのように」がはらむ危険性
しかし、なぜ「自分の立脚点を保つ」ことが、そこまで重要なのでしょうか? この問いに、思想的な深みから示唆を与えてくれるのが、パレスチナ系アメリカ人の文学理論家・文化批評家エドワード・サイード(Edward Said)です。彼の代表作“Orientalism”(Pantheon Books, 1978年)は、西洋が「東洋」をどのように表象してきたかを批判的に分析した古典的名著です。
サイードの洞察の核心は、「東洋を明確に表現する(articulate)のはヨーロッパである」という指摘にあります。彼によれば、すべての表象は、表象する側の言語、文化、制度に深く埋め込まれています。知識は権力を生み、権力はさらなる知識を要求する。この弁証法的関係が、オリエンタリズムという言説を支えてきたのです。
サイードが分析したのは、西洋学術による「東洋」表象という特定の文脈でした。しかし、この洞察を英語コミュニケーションの問題に援用すれば、次のように言えるかもしれません――ある言語で語るという行為は、その言語が背負ってきた歴史的・政治的な前提を、無自覚のうちに引き受ける行為でもありうる、と。つまり、ある言語を使うということは、単に「道具」を使うことではなく、その言語に埋め込まれた見方、考え方、価値判断までをも(意識するしないに関わらず)引き継ぐ可能性があるのです。
もちろん、サイードが分析した「西洋による東洋表象」と、日本人が英語を学ぶ状況は、権力の方向性が異なります。しかし、「言語には話者の前提が埋め込まれている」という洞察自体は、学習者の側にも示唆を与えるのではないでしょうか。
この視点は、私たちに重要な警鐘を鳴らしているように思います。何も考えずに「ネイティブのように」話そうとすることは、知らず知らずのうちに、自分本来の視点や立場を見失う危険性さえはらんでいるのかもしれません。

