奇妙な伝道師としての晩年
妻を失った太一郎は、1935年(昭和10年)、70歳を前にして松崎に社長の座を譲り、念願だった伝道の旅に出る。手には聖書と眼鏡を入れた信玄袋、腰には手ぬぐい、洋服姿なのに足元はゲタで、あごには真っ白な長いひげ。不審者すれすれの異様な出で立ちで全国を行脚した。
夜になれば教会に赴き、「我は罪人の首なり」という演題で講演を行った。神に仕えると誓いながらも、いつしか事業を成功させるために熾烈な競争や資本主義の荒波にのまれ、酒や世俗の付き合いに溺れて純粋な信仰を見失ってしまった自分への、深い懺悔の念の表れである。
生い立ちやアメリカでの苦難、そして自らの罪深さを思い出し、大の男がボロボロと涙を流しながら語る凄絶な姿に、聴衆の中から「感激しました。これから自首します」と名乗り出る犯罪者まで現れたというから驚きだ。
ただ、人間はそう簡単に変わらない。聖人君子のような伝道師も、相変わらず人間臭かった。講演に集まった聴衆が少ないと、途端にあからさまに不機嫌になった。
生涯手の届かなかった母への思慕
また、昼間はお忍びで全国の問屋や小売店を回ったが、店先で菓子の扱いが雑なのを見つけると我慢できずにしゃしゃり出て、「商売は正直でなければ栄えません!」と説教をぶちかまし、勝手に商品の陳列を直し始めた。
この愛すべきエゴの強さこそが、一代で巨大企業を築き上げる経営者の業というものだろう。
体調を崩しても「私の務めを妨げないで下さい」と馬車馬のように働き続けた太一郎は、妻を失ってからの7年間を信仰一筋で生き抜いた。
子どものための遊園地のような施設を作ったほかは贅沢を戒め、小さな家で暮らしながら、1937年(昭和12年)1月24日、賛美歌に包まれ、エンゼルに手を引かれるように静かに息を引き取った。享年71。
奇しくもその4カ月後、森永製菓は本稿の冒頭で触れた「森永母をたたえる会」を発足させる。生涯手の届かなかった母への思慕は、創業者の死と入れ替わるように、事業のかたちで残された。
戦後、サトウハチローは森永のCMソングを作詞した。
「だァれもいないと思っていても どこかで どこかで エンゼルは いつでも いつでも ながめてる」
親の愛を知らず、極端で怒りっぽくて、無鉄砲な大巨漢。誰よりも人間臭い男は誰よりも「愛」に飢え、生涯をかけて甘いお菓子を作り続けた。彼が残したエンゼルは、いまも天上から、現代を慌ただしく生きる子どもや母たちを、静かに見つめ続けているだろう。
参考文献
工藤憲雄「飛翔編(62)森永太一郎、洋菓子の大衆化に成功(20世紀日本の経済人)」日本経済新聞 2000年3月12日 朝刊
大隈知彦「さが100年の物語20世紀の群像(31)森永太一郎(1865~1937年)〈1931(昭和6)年宣伝革命〉」佐賀新聞 1999年8月9日
「=さが維新ひと紀行=(7) キリスト教の洗礼」 佐賀新聞 2018年2月17日
「食の文化と企業財団 ]12[エンゼル財団」 日本食糧新聞 1992年9月28日
「シリーズ菓子を語る(2) たらちね(2)森永太一郎苦難の青春記」 日本食糧新聞 1995年10月11日
「[創業物語]/森永製菓・森永太一朗/挫折の連続/乗り越える」 沖縄タイムス 1998年6月3日 夕刊
森沢真理「[地方紙と戦争 坂口献吉交友抄 外伝]7 森永太一郎(1865~1937) 広告駆使した『製菓王』」新潟日報 2014年5月22日 朝刊
永井一顕「[異才列伝]森永太一郎 不屈の魂 伝えるエンゼル」読売新聞 2010年6月20日 朝刊第2部

