当時は珍しい1日8時間労働を厳守

また、昭和恐慌で日本経済がどん底にあった1931年(昭和6年)にはライバルがこぞって値下げに走る中、森永は伯父の教え通り「正当な値段は絶対に下げない」と自分の考えを貫いた。

その代わり、複葉機「森永号」をチャーターし、全国80都市の空を飛び回るという前代未聞の「飛行機セール」をぶち上げた。上空からビラやパラシュートをばらまき、地上ではキャラメル30銭分の購入につき紙製飛行機の模型を進呈。模型は最終的に300万個が消費者の手に渡った。満州事変前夜の息苦しい世相の中、このド派手なキャンペーンは全国で熱狂的に迎えられ、見事なV字回復を遂げるのである。

経営者として素晴らしいのは、彼らが「女工哀史」とは無縁だったことだ。1919年(大正8年)、日本で初めて工場従業員に1日8時間労働制を導入した。出来高制のせいで休まない女子工員を見かねて、主任が休憩室のドアにカギをかけて無理やり休ませたというエピソードに、太一郎と松崎のキリスト教的な博愛精神が表れている。

酒も飲まないと商談にならない

森永製菓といえば、羽根を広げた「エンゼルマーク」である。1905年に商標登録されたこのマークは、太一郎自身が考案した。長男の穏やかな寝顔をヒントにしたとも、最初に手掛けたマシュマロがアメリカで「天使の糧」と呼ばれていたことに由来するとも言われている。

森永ミルクキャラメル
画像提供=森永製菓
森永ミルクキャラメル

「静かに信仰の道に分け入り、神に仕えたい」と願う太一郎だったが、決して穏やかな人物ではなかった。実のところ、菓子業界での激烈なシェア争いに巻き込まれると、「酒も飲まないと商談にならない」と夜の街にも繰り出し、元来の熱中しやすい性格も相まって、相当な暴れん坊ぶりを発揮していた。いつしか教会からも足が遠のき、世俗の垢にまみれていった時期もあった。

そんな「やんちゃ」な太一郎をたしなめ、タバコや酒をピタリとやめさせたのが、愛情深い後妻のタカ子だったが、最愛の妻は1930年(昭和5年)にこの世を去ってしまう。

臨終の病室で太一郎は深い喪失感に打ちひしがれ、かつてアメリカの地で涙を流したあの熱狂的な信仰心に翻然と立ち返る。