3時間睡眠で洋菓子修行

再びアメリカに戻った太一郎は、自分で働いて伝道資金を稼ぐ「使徒パウロ」の生き方に感銘を受ける。そして、当時日本にはまだなかった「洋菓子の製造」を天職と定めた。何かの勘違いなような気もするが、古今東西、名経営者は思い込みが激しい特性がある。

折しもアラスカでゴールドラッシュが起き、仕事には困らず、高給でコックの誘いもあったが、「洋菓子が天職だ」と思い込んでいる太一郎は見向きもしない。

ここからの没入ぶりも常軌を逸している。パン屋の下働きからキャンデー工場まで職を転々としながら製法を学び、睡眠時間はたったの3時間。「目的のために倒れるのも本望」と、猛烈な自己搾取を続け、案の定、肋膜炎を患って生死をさまよう。

パン生地をこねるパン職人
写真=iStock.com/kumikomini
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足掛け12年にも及ぶ凄まじい執念の末、1899年(明治32年)、34歳でついに帰国する。そして、東京・赤坂溜池の借地に建てたわずか2坪のバラック小屋で、「森永西洋菓子製造所」の看板を掲げる。最初に手掛けたのはマシュマロだった。

ただ、当時の日本人はミルクやバターの味を知らない。問屋に持ち込んでも「口に合わん」と突き返されてしまう。おまけに日本の高温多湿な気候のせいで、アメリカ仕込みの菓子はすぐに傷んでしまう。毎夜、返品された菓子の山を捨てるはめになる。大赤字だ。それでも、太一郎は律義に新品を作り直しては届け続ける。その愚直な取り組みが、駐日外国人の妻たちや宮内省からの信用を少しずつだが勝ち取っていった。

身長差24センチの凸凹コンビ

太一郎を町工場のオヤジから大企業へと押し上げたのは、運命の出会いだった。1905年(明治38年)、太一郎は約10歳年下の松崎半三郎を支配人として迎え入れる。立教学院出身の秀才でキリスト教徒の松崎は、身長5尺2寸(約157センチ)。181センチの太一郎と並ぶと、さながら大人と子どものようなコンビだった。

松崎は入社にあたり、太一郎に「あなたは製造に専念し、私は営業を担当する」「個人事業を将来株式会社にする」という条件を出した。太一郎はこれを快諾し、両者は互いの領分を侵さない不可侵条約を結ぶ。「製造の森永、営業の松崎」という最強の布陣がここに完成した。

1914年(大正3年)、森永の代名詞「ポケット用紙サック入りミルクキャラメル」が発売される。高温多湿な夏場対策として高価なブリキ缶から紙サックに改良し、大正博覧会で売り出すと、これが飛ぶように売れ、会社の屋台骨を盤石なものにした。

このコンビの凄みは、不況期や有事にこそ発揮された。1923年(大正12年)の関東大震災では、太一郎自らが陣頭指揮を執り、被災者にビスケット6万袋やキャラメル10万箱を無料で配りまくった。内務大臣の後藤新平に直談判して配給米を買い入れ、玄米の握り飯と梅干とたくあんで寝ずの救助活動を展開した。