久秀には“包囲網の完成”が見えていたか
一方、石山本願寺は大阪湾に面した摂津にある。信長はこの本願寺を海上から封鎖しようとしていたが、封鎖網が次第に厳重になっていたとはいえ、いまだ本願寺の勢力は強い。しかもその南の紀伊へと至るエリアは、独立心の強い反信長勢力が跋扈する土地である。
そして久秀の本拠・信貴山城は大和にある。京都の真南、大和盆地の北西端に位置する山城だ。その南の山々は、反信長というより、そもそも中央政権に従うことをよしとしない勢力が根強い。
この三点を重ね合わせると、久秀が描いていたであろう絵が見えてくる。
北から謙信が琵琶湖を越えて押し下りてくる。西から本願寺が摂津で信長の足を引っ張る。南から久秀が信貴山城を拠点に大和を押さえている。こうなると、完全に信長が京都に包囲されることになる。これは、いわば南北朝時代から繰り返されてきた京都攻略の定石といえるだろう。
長年、諸勢力の攻防を見てきた久秀にとって謙信と対立すれば、信長にも勝ち目はないと映ったはずだ。謙信が最終的に勝利するという確信があったわけではない。ただ、盤石になりそうな気配をみせていた信長も、これで一度瓦解するとは考えていたハズだ。
そうなると、重要なのは自分と一族が最重要プレイヤーとして各勢力から利益を得ることである。そのために「裏切るなら今が絶妙なタイミング」という判断があったのだろう。
久秀の“3つの誤算”
しかし、これは久秀の誤算であった。その誤算は大きく3つにわけられる。
1つ目は、信長が思ったほど動揺しなかったことだ。久秀の計算では、謙信の南下という外圧が信長を揺さぶり、久秀の離反がその動揺に追い打ちをかけるはずだった。しかし信長は使者を送りながらも、迅速に軍を動かした。包囲網が崩壊し、本願寺が孤立しつつあるこの局面で、信長の組織としての地力は久秀の想定を超えていた。
2つ目は、その信長が全力で信貴山城に攻めてきたことだ。久秀としては「謙信が来るまで籠城して時間を稼げばいい」という算段だったはずだ。信貴山城は大和盆地を見下ろす山城で、籠城戦には向いている。しかし信長は本願寺を抱えたまま、久秀討伐に主力を向けた。「多方面同時も辞さない」という信長の決断は、久秀の想定外だった。
そして3つ目の誤算は決定的だった。謙信が思ったように動かなかったのだ。
そう、手取川の戦いで勝利した謙信は、そのまま悠々と気持ちよく引き上げてしまったのだ。久秀の計算には「謙信が勝ったら南下を続ける」という前提があった。しかし謙信にとって、勝ったら帰るのは当然の話だった。義のために戦い、勝ったら満足して帰る。次にいつ動くかは、その時の気分次第だ。
久秀は「合理的な同盟者」として謙信を計算に入れていた。しかし謙信は同盟の論理で動く男ではなかった。

