京都中に広まっていた“衝撃”
そこで村井貞勝は二人に助命嘆願するよう言い聞かせた。しかし二人は「とても命御たすけはあるまじきものを」と答えた。どうせ助からないのだから、と。そして手紙を書くことを求めたという。
この部分、淡々とした記述を好むメモ魔の太田牛一なのに「感情の滲み」が伝わってくる。それくらいに久秀の裏切りがわけのわからない衝撃的な出来事だったことがわかる。
しかも、このパニックは世間にも伝播していた。処刑当日の様子を『信長公記』は、こう記している。
都鄙の貴賤して、見物仕り候。色をもたがえず、最後おとなしく、西に向ひ、ちいさき手を合せ、二人の者ども、高声に念仏となへ、生害。見る人、肝を消し、聞人も、涙せきあへず、哀れなる有様、中々目もあてられぬ様躰なり。
ここからは、久秀が裏切ったという事件の衝撃が京都中に広がっていたことが見て取れる。
『信長公記』の感情を込めた記述が示すのは、人質の処刑によってその衝撃がさらに拡大していたことだ。
「都鄙の貴賤して、見物仕り候」
当時の京都の民衆の空気を現代語で再現するなら、こんな感じだろう。
「松永久秀が裏切ったらしいで」「えええ、あの久秀が?」「そりゃあ、また天下が動くわ」「信長も動揺してるらしいしなあ」「どっちにしても、長くないんちゃう?」
SNSどころか新聞もない時代に、この話題が京都中に広がり、貴族から庶民まで全員が処刑を見物しに来た。「都鄙の貴賤して、見物仕り候」という一文は、単なる野次馬根性の話ではない。久秀の離反が「天下の行方がまだわからない」というリアリティを、京都の民衆レベルで共有していた証拠だ。
つまり久秀の賭けは、荒唐無稽な博打ではなかった。当時の京都の人々も「天下は、まだ信長とは限らない」「もう一波乱あるな、これは」となるくらいに、勝てる可能性があるものだったのだ。
信長は理解できなかったが、確かに久秀に勝機はあった。
1577年時点の畿内周辺を整理してみよう。
信長包囲網の主要メンバーはすでにほぼ壊滅している。最大の脅威だった武田信玄は1573年に病死。浅井長政・朝倉義景も同年滅亡し、信長の背後を脅かす勢力は消えた。将軍・足利義昭は1573年に京都を追放され、室町幕府は事実上の終焉を迎えていた。つまり、残る強敵は石山本願寺だけであった。しかもこの時点の本願寺は、海上補給路を断たれつつある孤立した状態だった。時間の問題、というのが大方の見立てであった。

