英駐日公使の日記から見える活躍ぶり
その多忙ぶりと活躍ぶりが分かるのが、『アーネスト・サトウ公使日記』(新人物往来社)だ。アーネスト・サトウ(1843~1929年、サトウはスラブ系の苗字)は幕末にイギリスの駐日公使についていた通訳官で、足かけ20年余り日本に滞在して薩英戦争に関わり、明治新政府の成立や西南戦争の収束を見届けてから、いったんイギリスに帰国。12年後の明治28年(1895)に駐日特命全権公使に出世して日本に戻ってきた。
サトウと三宮義胤にそれまでの交流があったかは不明だが、サトウがイギリス大使として再来日してからの親密ぶりはすごい。その日記を読むと、仕事絡みとはいえ、ほとんど毎週、ときには週に何回も、サトウと義胤は顔を合せている。
着任1カ月後、サトウが皇居で明治天皇に拝謁したのは義胤の手配によるものであり、天皇から手を差し伸べられ「長い年月を経て、またお会いできたことを喜ばしく思います」という言葉を賜ったという(『アーネスト・サトウ公使日記』)。そのように外国の要人が皇居に上がるときは、式部長になった義胤に日時をセッティングしてもらう必要があった。
そんなポジションだから、義胤は夫人と共に毎週のように西郷従道や大隈重信、そして「風、薫る」にも出てくる大山巌・捨松夫妻などの要人や各国大使の集う晩餐会に出席。自分たちの邸宅(大関和が通ったという高輪北町の家、現在の高輪ゲートウェイ駅のあたりか)でもパーティーを開いていた。
「とても魅力的で才気豊かな婦人」
やはり妻のアレシーアがイギリス人ということも大きかったようだ。この時点でアレシーアは乳がん手術から8年ほどを経ており、50歳前。幸い再発はなかったのか、元気に社交活動を行い、日本と欧米各国をつなぐ役割を果たしていた。『アーネスト・サトウ公使日記』に収録された写真を見ると、体型もふっくらして貫禄がある。
ベルギー大使のダヌタン夫人は「三宮夫人は極めて愛想のよい態度。とても魅力的で才気豊かな婦人である。三宮邸は東京で最も客扱いのうまいお宅」(『ベルギー公使夫人の明治日記』中央公論社)と日記に書いている。また、当時、駐日していたイギリス陸軍軍人はこう書く。
冒し難い威厳をそなえた三宮男爵夫人である。彼女は(中略)長い間、妃殿下方や宮廷の貴夫人たちをはじめ、日本の婦人は、はじめて外交団の社交界に出るときは、外国の服装や社交上の習慣について、彼女の助言を求めたものだった。彼女は毎週きまってアト・ホーム・デーをしたが、そのときはいつも大勢の客が来た。彼女の特殊な地位は、明治の初期、イギリスのもっていた影響力の変わった方面への反響だった。
(フランシス・ピゴット『断たれたきずな』時事通信社)

