高齢者は変節を恐れるな
この国のよくないところは、いったん始めたことを変えられないことです。金融緩和と財政出動で景気をよくするという理論自体はまちがっていなくても、現実問題としてアベノミクスがうまくいかないのなら、どんどん変えていけばよかったのです。変えていくうちに、景気がよくなったかもしれません。
何にしても、うまくいかなければ、作戦を変えるのは当然のことです。自分の信念であれ、絶対にこれだと思ったやり方や考え方であれ、うまくいかなかったら変えてみるというのは、何も悪いことではありません。
ただ、ここで強調したいのは、変節と付和雷同は違うということです。
変節は、自分の説をもっていて、そこから別の説に乗り換えることですが、付和雷同は他人の説に同調することなので、そこに自分の信念はありません。
「言うことが変わる」という意味においてはどちらも同じですが、AがブームのときにはAと言い、その後、BのブームがくればBと言うのが付和雷同です。
高齢者が変節するのは、まったく悪いことではありません。
「昔は収入格差があったほうが社会全体の生産性は上がると思っていたけど、格差が広がってみると、ろくなもんじゃないことに気づいた」
「あの国は親日でいい国だと思っていたけど、いまはひどい国だと思う」
というふうに、考えが変わることがあってもいいと思います。
変節といわれることを恐れる必要はないし、むしろ考え方を頑なに変えない高齢者は、頑固老人以外の何ものでもありません。
「前はそう思っていたけど、長く生きているうちに、やっぱりそれは違うと気づいたんだよ」
と言える清々しさは、とても魅力的だと思います。
付和雷同はみっともない
しかし、歳をとっても付和雷同している人、たとえば、民主党ブームのときは民主党に肩入れし、その後、保守ブームになれば、リベラルというだけで全否定するような人を見ると、失望を禁じえません。「あなたがた『長老』は、そんな人たちではなかったはずではありませんか?」と問いたくなります。
たとえばコロナ騒ぎのなかで、「昔は結核でもっとたくさん人が亡くなっていたけど、店を開けたらいけないとか、人と一緒に食事をしたらいけないなんてことはなかったようだけどね」と、さらっと言える老人がいたらすてきだと思います。
もっとも、戦前や終戦直後のあのころと、いまの時代の社会事情は大きく異なりますので、単純な比較は難しいわけですが、それでもその時代を経験している人が言うからこその重みを感じます。
「周りが言っていること=正しいこと」ではありません。コペルニクス以前の時代の人たちは、誰もが当たり前のように天動説を信じていましたが、天動説が正しくないのは言うまでもありません。
真理は多数決で決まるものではなく、本来は実験や研究によって答えを求める必要があります。自分ではそれができないとしても、せめて統計数字に当たるくらいのことはしておきたいものです。
高齢者はインターネットができない、スマートフォンが使えないとよくいわれますが、いざ始めてみれば意外なほどスムーズに使えるものです。さらに今ではAIに聞くこともできます。
高齢者がガラケーをスマホに替えるとうまく使えないことがあるのは、使う能力がないからではなく、普通に電話をかけるかぎりにおいては、事実としてスマホのほうが使いにくいからでしょう。
でも、彼らのなかにも、パソコンを使いこなせる人はたくさんいます。そのほうが深い情報も得られます。変節できる高齢者は立派だと思いますが、高齢になって、若い人やメディアが騒いでいるからといって付和雷同するというのは、どうもみっともない気がします。

