学校現場で起きている構造

データ活用が限定的である背景には、現場特有の構造がある。

一つ目は教師である。体力テストは年間計画に組み込まれており、実施しないという選択は現実的に取りにくい。測定は「やるべき業務」として位置づけられている。

二つ目は制度である。全国的に同じ項目で測定することで、比較可能なデータが得られる。この仕組みは合理性を持つ一方で、内容そのものの見直しが行われにくい構造でもある。

三つ目は保護者・社会である。体力低下が問題として語られる中で、「測定している」という事実は安心材料として機能する。

こうして、

・実施せざるをえない現場
・継続を前提とした制度
・測定を求める社会

という均衡=惰性的な実施になってしまう。

この構造は、特定の誰かの意思というよりも、結果として「やっていること自体が目的になる」状態を生みやすい。それでは、時間の浪費と言われてもしかたないかもしれない。

「測定すれば改善する」という前提

本来、体力テストは手段である。子どもの状態を把握し、指導に活かすためのものである。

しかし現場では、

・測定すること
・記録を残すこと

自体が目的となっている場面も見られる。

背景にあるのは、「測定すれば改善につながる」という思いや願いがある。それは必ずしも誤りではないが、惰性的に実施されることで、手段と目的の関係が曖昧になりやすい。家計簿を漫然とつけても、家計改善につながるとは必ずしも言えないのと同じで、ただ体力の記録を残してもあまり意味はないようにも思える。

測定が「目標化」する場面

にもかかわらず、学校は律儀に体力テストを実施する。なぜなら、テスト結果(数字)が一定の基準を満たすと表彰の対象になる場合があるからだ。地域によっては外部団体から賞状や記念品が授与されることもあり、学校単位での成果として扱われることもある。

あとわずかな記録の差で評価が変わる場合、測定をやり直して、より高い評価を目指す学校もある。また、どの種目で記録を伸ばすかを検討し、短期間で数値を上げることに焦点を当てる学校もある。一度高い成果を出した学校では、その状態を維持しようと全校を挙げて体力テストを頑張ろうというムードを作り出すこともよくある。

繰り返すが、体力テストは各子どもの身体の状態を把握するための手段である。ところが、実際はその結果が評価や表彰と結びつくことで、「測ること」から「より高い数値を目指すこと」といった競争になってしまう面が多々あるのだ。