外国と商売をするためには現金が必要

だからと言って別に大きな不都合はなかった。

国家の支出のほとんどは国内で完結しており、武士の生活費や城の建設費、役人の給料といった幕府や藩の主な支出も、突き詰めれば人の口を養うためのものだったからだ。つまり、集めた米をそのまま再分配すればそれで財政を回すことができたのである。

ところが、明治維新後の新政府はそれをよしとはしなかった。近代国家を築くには、銃や大砲を海外から購入し、鉄道を敷き、工場を建て、技術者を雇わなければならない。そうした支出は当然ながら米では支払えない。米をいくら積み上げたところで軍艦も機械も買うことはできないのである。

しかも米は保管や輸送にコストがかかり、価格も天候に左右されやすい。これは国家財政の基盤としては極めて不安定だ。

そこで必要になったのが、全国から安定して現金を集める仕組みである。

こうして1873年(明治6年)の地租改正によって、年貢米による納税から通貨による納税へと転換が行われた。このときから、米ではなく、お金で税を払うことが国民に義務付けられたのである。

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「何のために働くのか」が激変した

年貢米だろうが税金だろうが、取られることにかわりはないと思うかもしれないが、地租改正による納税手段の変更は、人間が「何のために働くのか」という前提条件を決定的に変えることになった。

年貢米を納めていたころは農民はとにかく米を作ればよかった。

米のほかにも野菜などを育てていて基本的には自給自足の生活だし、衣服や日用品の多くは家内生産や村内の分業によってそのほとんどが賄われていた。お金を使う場面も多少はあったのかもしれないが、それは生活の補助的な手段であり、全面的に依存していたわけではない。ないならないでも生き延びることは十分可能だったのだ。

しかし、税をお金で納めろと言われると、そこに米があるだけではどうにもならない。市場で米を売ってお金に換えるか、あるいは賃金労働によってお金を得なければならなくなるのだ。

つまり、国がお金での納税を強制するようになったことで、自給自足で十分生きられた人たちを含むほとんどすべての人々が「お金を手に入れなければならない存在」になり、「お金を媒介とする経済活動への参加」が絶対条件になったのである。