「みんなでたらめ」と反論する親族も…
ただ、白崎の小説には創作が多いとも言われ、どこまでが事実なのかわからない。
白崎の取材を受けた魯山人の長男の妻は「白崎秀雄の書いていることはみんなでたらめです」と反論している(長浜功『真説 北大路魯山人』)。
他にも魯山人の女性関係については、たくさんの知人が語っていて、「断言しますが、(魯山人)女にはだらしなかったですよ。とにかく無茶苦茶に手を出す」と言う人もいれば、「容易には女性を近づけなかった」(いずれも同書)と言う人もいる。
どの本でもどの人物の証言でも共通しているのは、“せき”が女優のようなとびきりの美人だったということだ。しかし、その美貌も、魯山人を長くつなぎとめておくことはできなかった。
魯山人は38歳のとき、会員制の食堂「美食倶楽部」を主宰し、食通としても有名になる。そして、42歳で東京の一等地・赤坂に伝説の料亭「星岡茶寮」を開き、政財界の大物たちに「星岡茶寮の料理を食べたことがなければ、一流の人物とはいえない」と言われるほどの評判を取って、名士の仲間入りをする。
20歳下の女中に手を付け、3度目の結婚
すると、「星岡茶寮」で雇った女中の“きよ”と恋仲になって、13年連れ添った2番目の妻“せき”を離縁した。3番目の妻となった“きよ”は、魯山人より20歳も下の24歳だった。
中島美嘉の曲の歌詞「一番綺麗な私を抱いたのはあなたでしょう」ではないけれど、芸能人レベルの美人だった女性を娶っておいて、その妻が40歳近くになったら、20代の女性に乗り換えるとは……。“せき”が魯山人を「悪い奴」と言って恨んでいたというのが事実だとしても、無理のない話だ。
結婚の翌年、“きよ”は魯山人の娘・和子を産んでいるので、できちゃった再々婚でもあったようだ。子のいなかった“せき”は離婚を拒みにくかったと、白崎は書く。
しかし、料亭で上司としての魯山人にうまく仕えていた“きよ”も、家庭人としての魯山人の横暴には耐えられなかった。
その後、「星岡茶寮」のオーナーたちから追放された魯山人が、北鎌倉に開いた陶芸の窯「星岡窯」に併設した古民家で暮らすようになると、“きよ”はまだ10歳の娘を置いて、窯の元職人と駆け落ちした。

