「魯山人との結婚は自己責任」

しかし、そんな修羅場を踏んだにもかかわらず、“きよ”は後に引きずらない“強メンタル”の持ち主だったようだ。

魯山人の没後には悪びれず、ムック『別冊太陽』の魯山人を追悼する座談会に出て発言しているし、白崎秀雄に会ったときもこう語ったという。

「私が魯山人のような男と結婚したばかりに一生をあやまったとか、あたら生涯をメチャメチャにされたとか、私に同情して云って下さる人があります。私は自分がむかし魯山人の芸術家気質らしいものに何も分からぬながら惹かれていたのも確かですし、魯山人がそこいらにいくらでもいるような芸術家ではなかったのは本当でしょうから、後悔はしておりません」
(白崎秀雄『北大路魯山人』ちくま文庫)

一応、1回目から3回目までは、それぞれ5~10年ていどの結婚期間があり、合計3人の子どももできて、それなりに家庭生活を営もうという意志が見えるが、4回目と5回目の結婚は1年ほどしか続かなかった。4回目の時点で魯山人は既に55歳だったのに、軽率すぎないだろうか。

来日したシドニー・カルドーゾの母親をすき焼きでもてなす魯山人
来日したシドニー・カルドーゾの母親をすき焼きでもてなす魯山人(写真=『没後50年 北大路魯山人展』図録/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

料理研究家、芸者を次々に妻に

魯山人はひとり娘の和子を溺愛していたが、その母“きよ”が失踪してしまい、和子の母親代わりを慌てて探していたのかもしれない。

4人目の結婚相手は、自著も出している料理研究家・熊田ムメだった。

広島高等女学校を出て、栄養学を学んでいたムメ。魯山人の料理は完全に我流だったため、星岡茶寮では思いつきで川エビの躍り食いなどを出していたが、ムメは「生の淡水魚類はジストーマなど寄生虫の恐れがありますよ」とアドバイスしたという(のちに魯山人はこのジストーマが原因で死去する)。

もちろん、ムメは著名な美食家である魯山人を尊敬しており、魯山人も彼女には一目置いていて、お互いにWin-Winの関係になれるパートナーのはずなのだが、この結婚もたった1年で破綻してしまった。

そして、魯山人が5回目に結婚したのは新橋の芸者だった梅香(本名・那嘉能なかの。白崎の小説によると、芸術家の妻になりたかった梅香の方が結婚に乗り気だったものの、いざ結婚し北鎌倉の家で暮らしてみると、魯山人は家事のやり方にいちいちダメ出しし、しかも生活費はいっさい出さず、貯蓄のあった梅香が持って当然という態度であったという。

その頃、女中をしていた二見梅子という女性は、ノンフィクション『知られざる魯山人』(山田和著、文春文庫)の中で、こう語っている。

「(四人目の妻の)ムメさん(中略)、いい人やったわいね。そのあとの奥さん、芸者の……(中略)、私らは『奥さん、奥さん』と呼んどりましたけど、性格がよかったですわ。和子さん(中略)、あの子は大人して、ほんまに優しい子やったから、新しいお母さんと問題はなかったですちゃ」