「魯山人との結婚は自己責任」
しかし、そんな修羅場を踏んだにもかかわらず、“きよ”は後に引きずらない“強メンタル”の持ち主だったようだ。
魯山人の没後には悪びれず、ムック『別冊太陽』の魯山人を追悼する座談会に出て発言しているし、白崎秀雄に会ったときもこう語ったという。
(白崎秀雄『北大路魯山人』ちくま文庫)
一応、1回目から3回目までは、それぞれ5~10年ていどの結婚期間があり、合計3人の子どももできて、それなりに家庭生活を営もうという意志が見えるが、4回目と5回目の結婚は1年ほどしか続かなかった。4回目の時点で魯山人は既に55歳だったのに、軽率すぎないだろうか。
料理研究家、芸者を次々に妻に
魯山人はひとり娘の和子を溺愛していたが、その母“きよ”が失踪してしまい、和子の母親代わりを慌てて探していたのかもしれない。
4人目の結婚相手は、自著も出している料理研究家・熊田ムメだった。
広島高等女学校を出て、栄養学を学んでいたムメ。魯山人の料理は完全に我流だったため、星岡茶寮では思いつきで川エビの躍り食いなどを出していたが、ムメは「生の淡水魚類はジストーマなど寄生虫の恐れがありますよ」とアドバイスしたという(のちに魯山人はこのジストーマが原因で死去する)。
もちろん、ムメは著名な美食家である魯山人を尊敬しており、魯山人も彼女には一目置いていて、お互いにWin-Winの関係になれるパートナーのはずなのだが、この結婚もたった1年で破綻してしまった。
そして、魯山人が5回目に結婚したのは新橋の芸者だった梅香(本名・那嘉能。白崎の小説によると、芸術家の妻になりたかった梅香の方が結婚に乗り気だったものの、いざ結婚し北鎌倉の家で暮らしてみると、魯山人は家事のやり方にいちいちダメ出しし、しかも生活費はいっさい出さず、貯蓄のあった梅香が持って当然という態度であったという。
その頃、女中をしていた二見梅子という女性は、ノンフィクション『知られざる魯山人』(山田和著、文春文庫)の中で、こう語っている。

