脳裏に焼き付いて消えない解剖室でみた光景
シスプラチンは細胞障害性抗悪性腫瘍薬の一つ、がん細胞のDNAを壊す、抗がん剤だ。
「がんの薬物療法はほとんど注目されていなかった時代でした。シスプラチンがようやく日本で使えるようになっていたんですが、第一内科では誰も使ったことがなかったんです。ぼくは研修医でありながら、製薬会社から資料を取り寄せて、投与しました」
目の前の患者を助けたいという一念だった。しかし、しばらくしてその患者は亡くなった。解剖室で小さな女の子の手を握った妻がぼう然と立つ姿は今も中川の脳裏に焼き付いている。
彼女は中川が手を尽くして治療してくれたことを感謝した。嬉しかったと同時に自分の無力を痛感したという。
がんをもっと知りたい、そう考えた中川は東京都中央区築地にある国立がんセンター(現・国立がん研究センター研究所)への国内留学を志願。
国立がんセンターでは、抗がん剤の“耐性克服”の研究に注力した。90年に大阪府羽曳野病院第二内科に移る。研究で得た知見を臨床の現場で生かしたいと思ったのだ。当時の羽曳野病院は「西のがんセンター」と呼ばれ、肺がん患者が集まっていた。
「がんの告知をしない」という患者への嘘
臨床医として再び患者と向きあうようになった中川は、現場の矛盾にぶつかることになる。がんの告知、である。
「患者さん、ご家族は、がんと告知されると精神的に動揺、恐怖を感じる。和らげるために嘘をついたほうがいいという考えでした」
患者に「がん」という病名を伝えていなかったのだ。肺がんの場合は「肺心筋症」の病名がつけられた。
羽曳野病院では、抗がん剤新薬の治験を行なっていた。治験とは開発中の新薬を使用した臨床試験である。
「何の治療を受けているのか分からないのに抗がん剤治療をやるなんてことはあってはならない、がんの告知をすべきだとぼくは言い出しました」
ところが、他の医師、看護師からの反対があった。
「告知をすれば、患者さんは一時的にショックを受けるかもしれません。ただ、どのような治療を受けるのか、どう生きていくのか考えることができる。嘘をつけば、(医学的な)説明が破綻するんです。
振り返ったときに、あのときなんで本当のことを言ってくれなかったんですか、と患者さんに思わせてはダメ。患者さんに寄り添うという理由であっても嘘はついたらいかんわけですよ。若かったせいもあって、押し通しました」
我々の第一義は、患者さんに対して責任を持つことなんですと語気を強める。
告知を受けた患者にアンケートをとってみると、ほとんどの患者が、告知されて良かったと答えたという。羽曳野病院の試みは全国に広がっていった。

