労組と経営層が「一時休戦」

いつもは所属部の部長がキャップクラスの記者に対し、「これが最終回答だから、回答受け入れで部内をまとめろ」とひそかに指示を出し、受け入れの根回し工作をするのですが、私は空気を読まなかったのです。指示を受けた先輩記者は後輩記者たちを説得できないと出世できないとビクつくようなサラリーマンタイプで、必死でした。

でも、いつも早朝から深夜までかけずり回っている若手記者としては、そんなゴマスリに調子を合わせるつもりはありません。

産業界全体では、このころから労働組合が経営側の都合を配慮する、いわゆる「労使協調」の雰囲気が出来ていたし、財界との結びつきを重視する日経はその典型例だったのです。

教訓が生きた第二次オイルショック

サウジアラビアに次いで世界2位の産油国だったイランで、モハンマド・パフラヴィー国王への不満が高まり、1978(昭和53)年1月に「イラン革命」が始まります。その混乱のなかで、イランからの石油輸入が一時ストップします。そしてOPEC(石油輸出国機構)が、石油需給逼ひっ迫を理由に大幅値上げを宣言することになります。

1979(昭和54)年1月16日になると、パフラヴィー国王が国外に退去し、イスラム教シーア派の宗教指導者、ルーホッラー・ホメイニ師が帰国してイラン革命を指導しました。そのホメイニは資源保護を理由に、原油の大幅減産を決定し、世界の石油需給はいっそう逼迫します。そして、OPECの値上げが続きます。

1980(昭和55)年には、イランに対してサダム・フセイン独裁下だったイラクが侵攻し、イラン・イラク戦争が勃発します。イランの石油輸出はさらに不安定になり、OPECも値上げを続行します。石油価格高騰は、日本にも大きな影響を与えていきます。第二次オイルショックです。

企業の節電などが話題にはなりましたが、第一次オイルショックのときのような混乱はありませんでした。第一次ショックの教訓が生かされた、とも言えます。

石油を海外からの輸入に依存している日本は、海外での自主原油開発を目指します。それを受けて1967(昭和42)年に政府によって設立されたのが特殊法人「石油開発公団」です。1978年には石油国家備蓄も業務となり、名称も「石油公団」に変わります。