明治12年「コレラ禍」が発生

黒羽と東京のどちらに住んでいたのか? それに関する一次資料は見つからず、はっきりとしたことはわからない。しかし、どっちに住んでいたとしても、出産を控えた大切なこの時期、チカは感染症の恐怖におびえることになる。

明治12年(1879)には西日本でコレラが発生し、その後、感染が全国に広がってゆく。同年の患者数は16万人に達し、年が明けてからも収束しない。当時の致死率は60~70%と極めて高く、発症すると2~3日でころりと死んでしまうことから人々は「コロリ」と呼んで恐れた。寺社祭礼など人が集まる行事は一切禁止となり、道路や路地の通行を遮断して人流をコントロールする措置がおこなわれる。

栃木県で初の患者が発生したのは明治12年8月のことだった。東京からの荷物を運んで鬼怒川を遡上していた川舟の船頭や同乗者にコレラの症状が現れる。やがて船頭らが休息した茶屋の娘にも感染し、その後、街道を伝って県内各地に広がった。感染者数は784人と東京などの大都市に比べたら少なかったが、コレラの恐怖に人々は大混乱。製糸工場は女子労働者たちが感染を恐れて出勤せず操業停止に追い込まれる。

明治時代の富岡製糸工場(群馬県)
明治時代の富岡製糸工場(群馬県)、『明治時代の日本』(吉川弘文館)より(画像=宮内省/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

チカが妊娠中のパンデミック

お祓いや祈禱が流行し、特効薬と称する怪しい薬を売り歩くやからも現れた。

水陸交通の要衝だった黒羽では、宿場町や河岸に各地から多くの人々が集まってくる。それだけに住民の不安はさらに大きく、緊張を強いられた。

現代でも新型コロナウィルスのパンデミックが起きたときには、多くの地域が医療崩壊の危機的状況に陥った。病気に罹っても診察を受けるのが難しく、とくに、妊娠中の女性は院内感染の危険もあり受診が難しかったと聞く。自身も感染の恐怖に怯えながら、お腹の子も守らねばならない。一般人以上に、様々な苦労を強いられ不安にさいなまれたようだった。当時のチカもまた妊婦という弱い立場でパンデミックを経験し、色々と考えさせられることは多かっただろう。それもまた、彼女が医療や看護に興味を抱くきっかけのひとつになったのかもしれない。