和は2児を連れ上京、英語塾に通う

上京後しばらくの経緯は記録に残っていないが、やがて神田五軒町の鄭永慶ていえいけい(代々幕府の中国語通訳「唐通事」を務めた家柄でエール大学留学経験を持つ英語堪能な人物)と知り合い、外国人女性との会話に不便を感じたことで英語習得を決意。東京・新橋にある正美英学塾の門を叩いた(毎日新聞出版『大関和がわかる』)。

塾を経営していたのは植村正度といい、植村正久牧師の弟にあたる。通ううちにキリスト教の教えに触れた和は、やがてその教会へと足を運ぶようになる。離婚という傷を抱えたまま異国の言葉を学び、信仰へと歩み寄っていくその数年が、のちの決断の土台になった。

大関和
大関和『実地看護法』(新友館)、大正15(1926)年より(写真=国立国会図書館デジタルコレクション

看護婦が卑しいと思われたワケ

明治19年(1886年)、植村から桜井女学校附属看護婦養成所への入学を勧められたとき、和は戸惑い、拒んだ。なぜなら当時、病人の看護をする者は、お金のために汚い仕事をする卑しい身分の人とされていたためだ。

当時の看護婦がどのような存在だったかは、記録が如実に語っている。『明治女性史』には「吉原の遣手婆やりてばばさんを連れてきて和泉橋の第一病院の看護にあてた。これが最初であったが、その後それが習慣となって」とあり、『職業婦人調査』も「莫連」(すれっからし)、あるいは「出戻りかもなくば あばづれのしたたか者と思われる様な者ばかりであった」と記している。

和自身の回想によれば、「私は実に寝耳に水と申しましょうか、びっくりして『いかにおちぶれたと言っても看護婦とは情けない』と答えました」(『婦人新報』第178号、明治45年4月25日)という。家老の家の出という誇りが、その仕事を受け入れることを許さなかったのだ。

それでも植村は諭し続けた。教養も財産も何不自由ない身でありながら最も慈善的な事業として看護を選んだナイチンゲールを例に挙げ、これほど神様が喜ぶ仕事はないと説いた。「この世で病に苦しんでいる人ほど不幸な人はいない。その病人を真心をもって看護することで天なる父の慈愛を示すのは、これ以上の伝道はない」(『婦人新報』第178号)。さらに従弟から「あなたが天使と仰いでいる植村牧師の勧めは、天にいらっしゃるお父様の思し召しではないのか」と問いかけられ(『明治のナイチンゲール 大関和物語』)、和はついに「神が与えた道」と決意を固める。

すぐにでも意思を伝えたくなった和は、夜道を歩いて植村の自宅を目指した。玄関の戸を叩いたのは夜中の午前1時のことだった(女子学院特設サイト)。明治19年11月に入学し、翌年3月に受洗した(大田原市「広報おおたわら」)。