和は2児を連れ上京、英語塾に通う
上京後しばらくの経緯は記録に残っていないが、やがて神田五軒町の鄭永慶(代々幕府の中国語通訳「唐通事」を務めた家柄でエール大学留学経験を持つ英語堪能な人物)と知り合い、外国人女性との会話に不便を感じたことで英語習得を決意。東京・新橋にある正美英学塾の門を叩いた(毎日新聞出版『大関和がわかる』)。
塾を経営していたのは植村正度といい、植村正久牧師の弟にあたる。通ううちにキリスト教の教えに触れた和は、やがてその教会へと足を運ぶようになる。離婚という傷を抱えたまま異国の言葉を学び、信仰へと歩み寄っていくその数年が、のちの決断の土台になった。
看護婦が卑しいと思われたワケ
明治19年(1886年)、植村から桜井女学校附属看護婦養成所への入学を勧められたとき、和は戸惑い、拒んだ。なぜなら当時、病人の看護をする者は、お金のために汚い仕事をする卑しい身分の人とされていたためだ。
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