セツ「自分の好きなように、一軒建てたい」

そしてなにより、刑務所。この拡張工事は市谷監獄に隣接して新たに東京監獄を移設して拡張というものであった。気に入っていた、うっそうとした森がなくなるあげくに、近所にいかめしい刑務所の塀。おまけに、前は笑っていたとしても、シャレにならないほど囚人は脱走を繰り返すとなれば、いよいよ「こんなとこ住めるか‼」となるのは当然だ。

ところが、この引っ越しでも、またセツとは意見が対立している。八雲の終の棲家となる西大久保の家は売りに出ていたもので、淋しい田舎で、樹木が多くて、庭が広く、家が小さいのがよいという八雲の理想にはピッタリだった。ところが、セツはこれが不満だった。買うのであれば一から設計して自分の家を持ちたいというのがセツの願いだったのだ。

私はいつまでも、借家住まいで暮すよりも、小さくとも、自分の好きなように、一軒建てたいと申しますと、「あなた、金ありますか」と申しますから「あります」と申します。「面白い、隠岐の島で建てましょう」といつも申します。

私は反対しますとそれでは「出雲にたてて置きましょう」と申しますから、全く土地まで探したこともありました。しかし、私はそれほど出雲がよいとは思いませんでしたから、ついこの西大久保の売屋敷を買って建増しすることに、とうとうなったのでございます。

(小泉節子、小泉一雄『小泉八雲』恒文社、1976年)

“文句があっても献身的”な夫婦関係

セツの言い分は至極まっとうだ。それなりに財産はできた。それであれば、適当な売家を買うよりは自分の好きな家を建てたい。なにしろ、家事をするのは自分のほうである。これは多くの人間が抱く、ごく普通の夢である。

ところが、そういった願望を語ると、八雲は幾度か旅行で訪れたことがある「隠岐に建てましょう」とか言い出す。そう、八雲が夢ばかり語ってセツのほうは常にリアルを語っているのである。ゆえに、会話はまったくかみ合ってない。かみ合ってないのに、セツはそんなに出雲に建てたいならばと、土地を探すまでしている。

これがセツという人間である。反対しながら、付き合ってしまう。呆れながら、動いてしまう。文句を言いながら、最後は八雲の夢に引きずり込まれている。

理屈では勝っているのに、なぜか負けている。

お互いに「何年も夫婦やってるけど、この人は話にならないわ〜」とならず、献身してしまうのが、二人のいいところなのだ。そして、その献身がかみ合わないまま積み重なった先に、『怪談』がある。二人の夫婦でなければ、あの本は生まれなかった。

トキとヘブンが画面の中で体現しているのも、結局はそういう夫婦の形なのかもしれない。

小泉八雲の終の棲家となった場所。現在は「小泉八雲記念公園」(新宿区)となっている。
筆者撮影
小泉八雲の終焉の地、大久保(新宿区)。ギリシャをイメージした「小泉八雲記念公園」。
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