近くの監獄では「毎度脱走騒ぎがありました」
しかも、この家の周囲は八雲なら喜びそうな適度な物騒さがあった。一雄は牛込時代のことを、こんなふうに回想している。
あの当時の囚人は概して獰猛だったのでしょうか、とにかく市ヶ谷監獄では毎度脱獄騒ぎがありました。重罪犯人が脱走した時などはカンカンカンカンと早鐘が鳴り、看守が抜剣してそこここと走り回りました。近所の子供等は兵隊ゴッコや戦争ゴッコ以外に愉快な遊びの一つとして泥棒ゴッコをして遊びました。
(小泉節子、小泉一雄『小泉八雲』恒文社、1976年)
現代ならば脱獄ともなれば、テレビは速報を流し、SNSは「近くにいる方は外出を控えてください」で埋め尽くされる大事件だ。そもそも、そんな事件が「毎度」起きる刑務所など、今の日本には存在しない。
ところが当時の市谷監獄は、脱走が近所の日常風景に組み込まれていた。子供たちは「泥棒ゴッコ」で遊び、看守が抜剣して走り回る光景を見物する。これが「ふつうの町」である。
八雲、大喜びである。セツ、頭を抱えたに違いない。
そして息子・一雄は後年、当時を振り返ってこう言っている。「山手の場末町の非文明な少年」……自称である。さすがは、化け物屋敷を「面白い」と言って悔しがった八雲の子供だ。
市街地化が進み、騒がしくなり始めた
そんな土地で6年あまりを過ごした八雲だが、没する2年前の1902年、西大久保へと転居している。この転居もまた、一悶着した結果であった。
簡単に記せば、市谷富久町あたりにも、市街地化が進みあたりがにわかに騒がしくなったことが原因だ。それは、具体的には、こういうことだったと一雄は記している。
父が富久町にほとほと愛想を尽して、早くどこか適当な所へ引き移ろうと考えるに到った原因には、瘤寺の新住職が、永い齢を保って来た木々――父の朝夕の友である山の樹木――をドシドシ伐採して金に替えることと、水道の鉄管敷設のため、始終住居の前の道路を掘り返されることと、市ヶ谷監獄拡張工事のため、赤服や青服の囚人幾隊もがゾロゾロと家の前を通ること、およびその脱走する者が度々あることなど、これ等が主なる原因でした。
(小泉節子、小泉一雄『小泉八雲』恒文社、1976年)
まるで現代の環境問題だ。寺としては自分のところの財産をカネにしてなにが悪いと言い分はあるだろう。でも八雲としては、その景色が気に入って、ここに住んだのだからふざけるなということだ。

