東京生活は“一時的なもの”と考えていた
いよいよ最終回も近づいたNHK朝の連続テレビ小説「ばけばけ」。トキ(髙石あかり)とヘブン(トミー・バストウ)の夫婦の物語は『怪談』という作品として、長く語り継がれることに……。
ついに東京に来たと思ったら、もう大団円。モデルである小泉八雲とセツの夫婦には、東京でこそ物語が多いのに、これだけは本当に残念だ。
さて、小泉八雲は1904年に豊多摩郡大久保村大字西大久保(現在の新宿区大久保1丁目)の自宅で死去している。実に東京で暮らすこと8年あまり。都会の喧噪を嫌った八雲としてはよく耐えたといったところだ。
いや、耐えたというより、当時はまだ新宿区も、その前身にあたる淀橋区もない郊外の土地(この地域の開発が本格化するのは関東大震災後)。それなので、なんとかなったといったところか。
そもそも、八雲の神戸での暮らしで語ったように、八雲は終の棲家はできれば松江、そうでなければ妥協しても神戸と考えていた。それでも、東京に出たのはセツが東京暮らしに憧れていたことと、東京帝国大学の400円という高給である。
(参考:「ばけばけ」では完全スルー…妻子を抱えて神戸に移住した小泉八雲が、たった2カ月で仕事を辞めた"切実な事情")
だから、八雲はいつまでも東京に住もうとは考えておらず、いつかは静かに暮らせる、よその土地に移ろうと考えていた。
近くに寺がある、大学から遠い家
八雲が東京で最初に住んだのは、牛込区市谷富久町(現在の新宿区富久町)であった。ここに住むまでも紆余曲折があった。勤務に先立ち、1896年8月に八雲はセツと一緒に上京して住まいを探している。最初に大学が用意していたのは、小石川にあった西洋館の官舎だった。しかし、八雲はこれを気に入らなかった。八雲が求めていたのは、なるべく大学から遠い家であった。
大学としては、小石川であれば徒歩でも大学に通うことが便利だろうと気を利かせたつもりだろう。後に八雲の後任となる夏目漱石は、根津神社の裏手のほうに住んでいてここで『吾輩は猫である』を執筆している(現在の文京区向丘2丁目)。
こうして探し歩いて見つけたのが、市谷富久町の一軒家であった。現在は成女学園の門前にあたる場所にあった家は陽当たりのよい家であった。とりわけ八雲が気にいったのは、近くに、堂塔に使っている檜の節目が多いものを用いたため「ふし寺」または「瘤寺」とも呼ばれる古刹・鎮護山圓融寺自證院があることだった。
当時、まだ開発の進んでいなかった寺の周囲にはうっそうと木が茂っているところもあったし、寺に連なる墓地も点在していた。それを八雲は気に入ったわけだ。

