八雲、本当は「化け物屋敷」にひかれていた
しかし、実は八雲は、これよりも気に入った家があった。それは、同じく牛込にある、かつては旗本が住んでいたであろう古い家だった。この家を見に行った時、夫婦の反応は正反対だった。
門を入るとすぐに、もう薄気味の悪いような変な家でした。ヘルンは「面白いの家です」といって気に入りましたが、私にはどうもよくない家だと思われまして、止めることにいたしましたが、後で聞きますと、化け物屋敷で、家賃は段々と安くなって、とうとうこわされたとかいうことでした。この話をいたしますと、ヘルンは「ああ、ですから何故、あの家に住みませんでしたか。あの家面白いの家と私思いました」と申しました。
(小泉節子、小泉一雄『小泉八雲』恒文社、1976年)
まったく、お互いを理解しきっている夫婦のハズなのに、突然かみ合わないのが面白いところ。
後で化け物屋敷と知った時、普通の夫なら「そうか、止めてくれて助かった」と殊勝になるところだ。ところが、八雲は悔しがっている。本物の化け物屋敷だったと知って、むしろテンションが上がっているのである。
怪談作家として、これはある意味で正しい反応なのかもしれない。
しかし、セツにしてみれば「子供もいるのに、化け物屋敷に住みたいって何ですか‼」といったところだ。現代でも、アウトローや危険地帯に飛び込んで、多くのノンフィクションを書いてきた優れた描き手が気がついたら、子育てとか生活目線のエッセイを書いてることが少なからずある。おおむね家族ができて、守りに入ってしまうというわけだ。
郊外で森があり“安心できるところ”
対して八雲は、妻がいようが子供がいようが作品に対しては常にフルスロットル。「芸のためなら女房も泣かす」スタイルである。ともすれば、家族のことも忘れて没頭してしまいそうな八雲の暴走を止めるのにセツは優秀なストッパーだったといえる。
そして、その絶妙なストップ加減が、後世に残る作品を生み出させたというわけだ。これも、やっぱり天の采配であろうか。
紆余曲折があったが、市谷富久町の家は八雲にとって安心できるところだった。なにより、東京だというのに郊外に位置していて、武蔵野の森がうっそうとしげっていた。この土地は、後に自證院の北に幸徳秋水らが処刑された東京監獄ができたことで知られるが、八雲が住んでいた当時は規模の小さな市谷監獄があるだけで、宅地も限られていた。
このあたりは、現在の地図でいえば東西を走る靖国通りを谷底としていくつもの台地があるところだ。ゆえに散歩すればすぐに坂道に出会う。そうした喧噪に包まれた東京からは切り離された風景の中で、八雲はどうにかやめたい東京生活を、ぐっと我慢していたのだろう。

