八雲亡き後の妻セツの奔走ぶり

1904年(明治37年)9月26日、小泉八雲は心臓発作(狭心症)で永眠する。享年54歳。一方、妻のセツは1932年(昭和7年)に亡くなるまで、八雲の死後30年近く生き続けた。

八雲亡き後、セツは残された4人の子供を育てながら、八雲が残した遺産の管理を行った。なお、遺産には不動産や家財、金銭はもちろん、八雲の著書の版権も含まれる。

八雲は相続のトラブルを回避するため、遺産のすべてを妻セツに残す――という遺言状を残していた。そもそも、八雲が日本に帰化した理由のひとつに、日本国籍を持つ妻と子供に遺産を相続させることがあった。

その後の成り行きを見ると、八雲の遺産相続のやり方は極めて適切であったことが納得できる。ドラマでは英語がからっきし話せない学のない妻として描かれているセツだが、八雲の生前から家計の管理を行っており、金銭の扱いには長けていたようだ。

セツは八雲の版権を保有するだけでなく、対外的な交渉や管理を行い、そこから得られる印税で子供を育て適正な教育を受けさせたり、家や家財を維持したりした。セツと家族は八雲の死後も大久保の自宅に住み続け、八雲が愛用していた机や椅子、膨大な蔵書を保管し続けた。これらの多くは、島根県松江市の小泉八雲記念館をはじめ、熊本の旧居や静岡県焼津市の記念館などに展示されている。

さらに、セツは八雲の死語間もなくから、彼との生活を記した手記『思ひ出の記』を口述形式で著し、八雲との日本での生活を後世に伝えた。長男の一雄との回顧録と共に、ばけばけの「元ネタ」ともなっている。

「インテリ向けの本」が名作の評価を得られた理由

八雲の作品は、彼の生前も高く評価されてはいたが、英語圏のインテリ層の間で読まれるようなものだった。日本で彼の作品が評価されるようになったのは、八雲の死後に東京帝国大学の教え子たちを中心に翻訳が進められるようになってからのことだ。

版権管理と作品の評価が正しく行われないと、後世に作品を残し続けることはできない。

八雲の生前以上に、死後に作品が評価されるようになったのは、セツと八雲の子孫(特に曾孫の小泉凡氏)はじめ、彼らの親類縁者、八雲の教え子たちの尽力により、著作が日本をはじめとする各国で出版され、八雲の実績と作品の魅力が後世に伝えられたところも大きい。

ドラマでは駆け足で描かれてはいるが、多くの名作が生み出され、それが多くの読者を獲得するようになったのは、八雲夫妻の東京時代があったからこそなのだ。

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