「セツの意向」を汲みに汲んだ東京生活
ドラマで描かれているように、八雲は東京帝国大学から英文学の講師として招聘され、東京に居を移している。古い日本を愛する八雲にとって、近代化が急速に進む東京に住むことには乗り気ではなかったようだ。それでも東京移住を決めたのは、妻のセツがそれを望んでいたからだ。セツは「外国人の妻」として好奇の目で見られることを嫌っていたし、都会生活に対するあこがれもあったようだ。
一方の八雲自身は、東京に長居するつもりはなかったようだが、結果的には晩年の8年間を東京で暮らし、東京で亡くなることになる。
八雲夫妻が最初に住んだのは現在の新宿区富久町で、ここで5年間半暮らしている。勤務先の東京帝大からは遠く、お抱えの人力車で約1時間かけて通っていたという。大学からあえて遠いところを選んだのは、人付き合いと都会の喧騒を避けるためだったようだ。
その後、八雲とセツは西大久保(現在の新宿区大久保1丁目)に家を建てて移り住んだ。生粋の「流浪の民」であった八雲にとって、初めての持ち家であり、かつここが彼らの「終の棲家」となった。わざわざ家を建てたのも、家族が落ち着いて暮らせる場所が欲しいという妻セツの意向を汲んでのことであったという。
八雲の東京時代を見ると、妻のセツの意向が最大限に尊重されていることが伺えるが、4人の子供を抱え、「入夫婚姻」という形で日本に帰化した八雲は、家族・親族を養う責任も負っていたのだ。
ちなみに、晩年の八雲のセツに対する愛情については、昼間たかしさんが詳しく語っているので、そちらを参考にしていただきたい。
「ばけばけ」では絶対に放送できない…小泉八雲も息子も手に負えなかった妻セツの"ヒステリーすぎる素顔"
急速な近代化が八雲を執筆に駆り立てた
一方、セツの方も献身的に八雲を支えていたようで、八雲が大学に勤務している間、浅草や神田の古書店を回り、怪談集や奇談集を購入していたという。大学から離れた閑静な地域に住んでいたことも功を奏し、八雲は人付き合いに煩わされることなく、執筆に注力することができた。
『怪談(Kwaidan)』『骨董(Kotto)』『神国日本(Japan: An Attempt at Interpretation)』といった彼の代表作は、実は東京時代に執筆されたものだ。
筆者としては、八雲が急速に近代化の進む東京に身を置いたからこそ、「古い日本を書き残さねば」という使命感に駆られたのではないか――と考えている。
