「終の棲家」は現在の歌舞伎町と新大久保の間

富久町も大久保のいずれも、八雲の自宅は跡形もなく、いまは碑が残されているのみだ。

富久町は、八雲が住み始めた当時は古い屋敷が残る地域だったが、その後に急速に近代化が進み、八雲はより閑静な場所を求めて大久保に移り住んだという。現在の富久町は、新宿区の中心に位置しているが、公共交通機関があまり充実しておらず、比較的落ち着いた住宅街となっている。なお、八雲の旧居は、いまは成女学園中学校・成女高等学校になっており、「小泉八雲旧居跡」の看板が残されているのみだ。

一方、大久保の新居の方は、歌舞伎町と新大久保の多国籍タウンの間に位置し、東京でも有数の繁華街の間に位置している。当時はのどかな場所だったようで、八雲の自宅の敷地は800坪もあったそうだ。

こちらは、現在は新宿区立大久保小学校になっており、「小泉八雲終焉の地」の碑と説明書きが残されているのみである。

新宿区富久町の小泉八雲旧居跡(左)、大久保の小泉八雲終焉の地(右)
筆者撮影
新宿区富久町の小泉八雲旧居跡(左)、大久保の小泉八雲終焉の地(右)

「昔ながらの日本」が残る東京西側を散策していた

その代わりと言ってはなんだが、そこからほど近くに「小泉八雲記念公園」という小さな公園が設置されている。ここは、小泉八雲の出身地であるギリシャをイメージして作られており、エスニックタウンの中で少し異質な雰囲気を醸し出している。

大久保の小泉八雲公園
筆者撮影
大久保の小泉八雲公園

現代では、本郷、浅草、上野といった東京の東側方に古い日本が残っているのだが、八雲が生きた明治時代は、西側のほうが開発が遅れており、昔ながらの風景が残されていたようだ。

八雲がよく散策していたのも、雑司ヶ谷、落合といった、やはり西側の発展していない地域だった。

現在の東京には、八雲が好んだ古い日本は跡形もなく消え去ってしまっている。ただ、本稿で紹介した八雲ゆかりの地は、いずれも都心の繁華街の中にあるにもかかわらず、比較的静かで落ち着きがある場所である。そこは唯一の救いといえるかもしれない。