やっとの思いで殺人鬼を倒したのに…
島民は、タヒチの司教に助けを求める手紙を書いた。これは、彼らにとって初めての島外への救援要請だった。司教はフランス海軍に軍事介入を依頼したものの、深刻に取り合ってもらえなかったので、宣教師たちは船に島民を乗せられるだけ乗せて島から逃げ出した。その後、デュトル=ボルニエは羊牧場の建設に着手した。
結局、島に残されたわずかなラパ・ヌイ人は、自分たちの手で問題を解決しようとした。数人のグループがデュトル=ボルニエを待ち伏せして殺害したのだ(3)。
だが、島はほぼ壊滅状態で、島民はすでに110人しか残っていなかった(うち26人が女性)。ほどなくして、イースター島から約3200キロメートル離れていてポリネシア人がいなかった国――チリが、島の領有権を主張しはじめた。
そこには、よくある契約上のトリックが使われていた。チリ側の書類には「島はチリの一部である」と明記されていた一方で、ラパ・ヌイ側の書類には「彼らは島の友人である」とだけ書かれていたのだ。
(3) デュトル=ボルニエ殺害につながったと思われる具体的な事件は、「クレト王妃のドレスの質が悪いこと」についての言い争いだった。



