後先考えない自然破壊の末路

人間というのは、たとえ絶海の孤島にいたとしても、どうでもいいことで同胞の半分を敵にまわして争うものなのだ。

もちろん、人間が得意なことはほかにもある。自然破壊だ。ラパ・ヌイ人も同じで、驚異的なペースで木を伐採していった。

自然を破壊するのが人間だけだったら、まだどうにかなったかもしれない。

だが、島に渡ってきた彼らの祖先は、うっかりナンヨウネズミを持ち込んでいた。ネズミたちは、いずれ大木になるはずだったチリサケヤシの実をむさぼり食った。

木材が足りなくなった島民は、代わりに草を燃料にした。やがて人口は減少し、海鳥が寄りつかなくなり、楽園は荒れ地と化した(2)

それでも、この状況はのちにやってくる時代と比べれば、天と地ほどの差があった。

(2) ただし、最近の考古学研究のなかには、ヨーロッパ人到来以前のラパ・ヌイ人の生活は、これまで考えられていたよりもずっと文明的だったと主張するものがある。

地獄と化した平和の楽園

19世紀、島にやって来たイギリス人たちが神聖なモアイ像を持ち出す事件が起こった。また、ペルーの商人が島民に目をつけ、人口のおよそ半分が生け捕りにされた。さらに、結核と天然痘という悲劇までもが彼らに襲いかかった。宣教師と船の船長であるデュトル=ボルニエが現れたのは、まさにそんなときだった。

ジャン=バティスト・デュトル=ボルニエ、1867年頃
ジャン=バティスト・デュトル=ボルニエ、1867年頃(写真=PD France/Wikimedia Commons

デュトル=ボルニエは、常軌を逸した熱意をもって島を恐怖に陥れた。彼はまず奴隷売買に手を出し、徐々に土地も買い上げていった。

さらに島に自分の旗を立て、女たちをさらった。そのなかの1人であるクレトは、彼の「妻」になった。彼が購入したことになっている土地の領収書には、クレトのことを「イースター島の王妃」と記してあった。

デュトル=ボルニエを止めようとした2人の宣教師は、結果的に島民と同じように虐げられることとなる。