「養子入り」まで長男誕生から2年以上

そして11月、一雄が生まれた。

興奮したのか、嬉しかったのか、それとも単純に眠れなかったのか。八雲は生まれた直後、すぐさま西田に手紙をしたためている。そこにはこう書いてあった。

24時間以上も就寝していません。

ついこないだまで「解雇されないうちに金を貯めなければ」と西田に愚痴を書き送っていた男が、今度は我が子の顔を見て一晩中起きている。この変化を、西田はどんな気持ちで読んだだろうか。苦笑しながら、少しほっとしたかもしれない。

ハーンの息子、一雄。17歳前後
ハーンの息子、一雄。17歳前後(写真=Nina H. Kennard『Lafcadio Hearn』/PD US/Wikimedia Commons

長男・一雄の誕生が、八雲に法律上の責任を果たす覚悟を決めさせたのは間違いない。ただ、ここからがまた一筋縄ではいかなかった。

八雲が小泉家に養子として入り、正式に「小泉八雲」となったのは1896年2月のこと。一雄の誕生から実に2年以上が経っている。

なぜそんなに時間がかかったのか。帰化の手続きが、想像を絶するほど面倒だったからだ。

東京や横浜のような外国人が多く住む都市なら、役所の担当者も慣れている。ところが八雲たちは熊本住まい、しかも小泉家の戸籍は松江にある。担当の役人からすれば「そんな手続き、やったことがない」案件である。インターネットはもちろん、電話すらない時代だ。書類のやり取りは郵便で、確認のたびに何週間もかかる。

八雲「ほかの方法はありません」

この難題を陰で支えたのが、またしても西田だった。帰化の手続きにあたって、西田はかなりの尽力をしている。八雲の人生の節目には、いつもこの男がいる。

もう一つの問題は、八雲にとって帰化が損な話でしかなかったことだ。1895年7月25日付の西田宛ての手紙には、こう書いている。

日本国民になることは非常に困難で、高価なものになる恐れがあります。私にはなんの利益にならない上に、しかし、状況を正当なものにするには、ほかの方法はありません。

当時の日本はまだ欧米との不平等条約が残っており、外国人には治外法権という特権があった。イギリス国籍を持つ八雲は、日本の法律ではなく本国の法律で守られていたのだ。日本人になった途端、その盾を自ら捨てることになる。給料を日本人並みに下げられるリスクも、現実としてあった。

つまり帰化とは八雲にとって、メリットが何もない選択だった。それでも「状況を正当なものにするには、ほかの方法はありません」と書いた。損を承知で、セツと一雄のために腹をくくったのだ。