「高給な御雇外国人」への厳しい視線
笑えない話だが、八雲の「来年は切られるかも」という心配は、まったく的外れではなかった。
八雲が熊本に赴任した1891年(明治24年)は、第1回帝国議会が開かれたばかり。野党・民党が「民力休養・政費節減」をぶち上げ、官吏の給料を削れ、庁費を1割カットしろと予算委員会で次々と決議していた時代である(『大蔵省史 ――明治・大正・昭和――』)。
ひと言で言えば、国に金がなかったのだ。
財政難の波は教育行政にも押し寄せ、せっかく整備しかけた官立学校を整理してしまえという案まで飛び出す始末だった。
そうなると真っ先に「こいつ、給料が高すぎじゃないか」と槍玉に挙がるのが、八雲のような御雇外国人である。当時の一般教員の月給は高くて20円。八雲の月給200円はその10倍、内閣府の資料によれば、当時の御雇外国人全体の俸給は「一般公務員の約20倍」になっていたとされる。
しかも、御雇外国人の数はすでにピークの明治9年から減り続けており、1890年代は誰の目にも明らかな「お払い箱の時代」だった。次第に勉強をして英語をマスターした者も増え「英語くらい日本人教師で十分だろう」という声が、議会の内外でじわじわと広がっていたのである。
「日本人並みの給与」に引き下げられる懸念
しかも不穏な前例まであった。日本に帰化した外国人教師が「日本人になったんだから」という理由で給与を日本人並みに引き下げられた事例が、すでに起きていたのだ。
つまり八雲が「来年、契約が切れたら」と怯えるのは、浪費家の取り越し苦労などではなく、時代の空気がそのまま圧力となって彼に迫っていたのである。
こんな状況で、入籍すれば、セツの両親、養祖父、女中たち……熊本の広い屋敷に集まった大所帯を、日本人並みの給与で養い続けなければならなくなる……とても無理だ。
「入籍しないのは無責任。でも入籍したら、この人たち全員を養えなくなるかもしれない」
八雲は、自分で掘った穴の底で、ひとり算盤を弾いていたのである。
そもそも八雲は、40歳で来日するまでのほとんどを独り身で過ごしてきた男だ。アメリカ時代は文字通りの無一文からスタートし、ホームレス同然の路上生活を経てジャーナリストに成り上がった。稼いだ金の使い道は自分で決めればいい。書物が欲しければ買う。旅に出たければ出る。誰にも文句を言われない、気楽な一匹狼の生活である。
いきなり、収入を計画的に家族のために使うという切り替えは難しい。八雲の性格からしてみれば、特に難しかっただろう。
