信長に感じていた負い目
勝家は生年も父親もわからない。天正11年(1583)4月の享年も、史料によって数え年で57歳から62歳まで幅があるが、ともかく信長よりは7歳から12歳ほど年長だったことになる。信長の父の信秀に仕えたが、信秀が天文21年(1552)に病死すると、家督を継いだ信長ではなく同母弟の信勝に仕えた。この事実はずっと勝家の引け目につながったのではないだろうか。
というのも、信長と信勝はその後しばらく織田家の主導権をめぐって争ったのだ。弘治2年(1556)には、兄弟が稲生原(名古屋市西区)で激突し、勝家が率いる部隊は信長方の有力武将を討ち取るなどし、勝家自身も負傷した。その後、敗れた信勝は兄に詫びを入れて赦免されたが、すぐにまた信長を斃そうと画策する。
その際、弟の「謀反」を信長に密告したのが勝家だった。稲生原での敗戦を勝家のせいにされるなど、納得がいかなかったようで、そこから信長に仕えることになったのだが、信長と敵対した過去があるだけに、ほかの武将以上に信長に忠義を尽くしたと思われる。
織田家の中で最強派閥だったが…
だから信長も信頼したのだろう。たとえば永禄11年(1568)に信長が足利義昭を奉じて上京した際、三好勢力の拠点の勝龍寺城(京都府長岡京市)を攻める総大将をまかされ、その後も、畿内の平定戦を主導した。
永禄12年(1569)閏5月にイエズス会の宣教師ルイス・フロイスが岐阜城に招かれたときも、フロイス一行を歓待したのは勝家で、フロイスは勝家について「信長の最高の四武将の1人で、信長の寵愛が深い」という旨を記している。
だが、不運にも見舞われる。元亀元年(1570)以降、前出の長光寺城を本拠に近江(滋賀県)の蒲生郡の支配をまかされた勝家だったが、この年には親しかった森可成と坂井政尚が、翌年には、もっと親しく親友のような関係だった和田惟政が相次いで戦死してしまった。
戦国史研究家の和田裕弘氏は『柴田勝家』(中公新書)に「彼ら三人が討死せずに、その後も活躍を続けていれば、勝家を中心としたグループは織田家中最強の派閥になっていたであろう」と書いている。

