明智光秀を討つには遠くにいすぎた
しかも、6月6日に本能寺の変について知らされたとき(秀吉は4日未明には情報を得ていた)、上杉攻めのために越中(富山県)にいて、本拠地の北庄城(福井県福井市)に戻るだけでも200キロ前後の距離で、北庄から京都方面までも百数十キロあった。一方、秀吉がいた備中高松(岡山県岡山市)から京都方面はまでは200キロに満たない。明智光秀を討とうにも、秀吉に先に越されないはずがなかった。
だから、本能寺の変後の体制を決める清須会議を、秀吉が主導したのは当然だが、ここに集まった勝家、秀吉、丹羽長秀、池田恒興の4人、さらに堀秀政を加えた5人のなかで、光秀を討った山崎合戦に参加しなかった(できなかった)のは勝家だけだった。それなのにあらたに近江の長浜周辺に20万石を得たのは、それだけ勝家の存在が大きかったということでもある。
とはいえ、光秀討伐に参加できなかった影響は大きかった。精神的な焦りもあったのだろう、いろいろなことが後手に回り、空回りするあいだに、秀吉は政権を奪う準備を着々と進める。いざ、秀吉との対立が決定的になると、今度は豪雪のために身動きがとれず、決戦である賤ケ岳合戦でも、前田利家が戦線離脱する――。
天正11年(1583)4月23日、秀吉に攻囲された北庄城で、妻の市をはじめ家族を刺殺したのち、壮絶な最期を遂げたのはよく知られる。そして、この死を考えるとき、「偶然」とか「運命」とかを思わざるをえない。
親しい武将が続々と死に、付いた与力は忠実でなく、まかされた領土は統治が困難で、すぐ近くに難敵がいて、冬は豪雪で身動きがとれない。しかも、予期せぬクーデターが起きたのは、まさに難敵を追い詰めたタイミングで、それゆえクーデターの鎮圧でライバルに先を越される――。仮に秀吉が勝家の条件を背負い、勝家が秀吉の条件下にいたら、歴史はどう動いただろうか。そんなことを考えさせられる。

