運命を変えた信長からの命令
それでも、勝家はその後も信長の右腕であり続けた。元亀3年(1572)、将軍足利義昭が信長と対立したとき、織田軍の総大将として義昭を追い詰めたのは勝家で、フロイスも「総司令官の柴田殿」と書く。
あるいは、各所でいろいろな人に頼られたようだ。ひとりの武将から明智光秀との紛争についてアドバイスを求められ、返書している。天正元年(1573)には、毛利に滅ぼされた尼子氏の再興を目論む山中鹿介が、勝家を通じて信長の支援を得ようとした。勝家への信長の信頼がいかに熱いか、広く知られていたのだろう。
しかし、天正3年(1575)9月、信長から越前(福井県北東部)の支配をまかせられたのは、結果的に勝家にとって不運をもたらしたように思われる。
むろん、名誉なことではあった。一向一揆が猛威を振るった越前を治めることができるのは、忠義の点でも武功の点でも勝家しかいない、というのが信長の判断だったはずで、これまでの働きが報われた結果であった。だが、越前の環境はさまざまな意味で、勝家に不利をもたらした。
難敵・景勝を追い込んでいたのに
まず、勝家の与力(指揮下に属する武士)となったのがツワモノぞろいだった。佐々成政、前田利家、不破光治。それぞれ軍事的な力量は申し分ないが、成政と利家は勝家と旧知の仲であるばかりか、信長の指示には従っても、勝家の指示に従うとは思えないほどの大物である。彼らを掌握するのは至難だったに違いない。
また、前述のように、足元の越後には一向一揆の勢力が根強かったうえ、東方には、織田方への徹底抗戦を辞さない上杉景勝がいて、隙を見せる余地がない。それなのに、豪雪地帯だから冬には身動きがとれなくなってしまう。
秀吉とくらべるとわかりやすい。秀吉は天正5年(1577)、信長に中国地方の攻略を命じられたが、与力には黒田孝高や竹中重治(半兵衛)、蜂須賀正勝ら、秀吉に忠実な武将が多く、毛利輝元は上杉景勝ほどコワモテではなく、雪で身動きがとれなくなることもない。
こうした不利と有利が本能寺の変後、如実に顕在化する。勝家は上杉攻略でも、本能寺の変の翌日に魚津城(富山県魚津市)を落城させ(まだ変の知らせは届いていなかった)、一挙に景勝を討ち取ろうというタイミングだった。本能寺の変が起きずにそのまま景勝を討っていたら、勝家の評価は極めて高くなっただろうが、歴史はそうは動かなかった。
