城があったことはまちがいない
相当に具体的で、信長の戦略も、墨俣の特徴も、そこでの城(砦)の築き方も、頭のなかで映像化できるほど鮮やかに伝わる。
だが、これほど明瞭な「史実」をなぜ『信長公記』が無視しているのか、という疑問にはじまり、内容に対しても、さまざまな「ケチ」がつけられるようになった。たとえば、昭和29年(1954)の市町村合併で、富田村と加治田村が合併してはじめて誕生した「富加」という名が登場するのはそのひとつだ。
「現代的な読みやすい文章」だという指摘もあるが、たしかに、この時代の史料と考えると異例なほど読みやすいのはまちがいない。また、所有者の吉田家がこの史料を非公開にしていることも、疑いがふくらむ原因になっている。
一方、書かれた内容に誤りがあったとしても、一部の誤りを理由に史料的価値がないとすべきではない、という主張も根強い。要は、『武功夜話』が「ニセモノ」なのかどうか、書かれた内容がフィクションなのかどうか、結論はまったく出ていない。
ただし、この地に城が築かれたことがあることはまちがいない。史料にも登場し、斉藤側であったことも織田側であったこともあるようで、古地図にも「城あと」と書かれ、「城」がつく地名も残っていた。発掘では兜や刀も見つかっている。では、それはどんな城だったのか。
現在の「墨俣城」とはまったく違う姿
「豊臣兄弟!」の第8回に登場する墨俣一夜城は、空堀を掘って土塁を積み、そこに馬防柵をめぐらした、きわめて簡易な城のはずだ。現実の墨俣城も、それが「豊臣兄弟!」で描写される一夜城だったとしても、一夜城ではない恒常的に使用する城だったとしても、現代人が「城」という言葉から想像するものとは、似ても似つかないものだったことだけはまちがいない。
この時期、信長はすでに居城の小牧山城の中心部を、巨石をもちいた三重の石垣で囲んでいたが、高層の天守はまだ建っていなかったと考えられる。ましてや小さな陣城は、空堀を掘り、その土を盛って土塁とし、その上に木の柵をめぐらし、ごく簡易的な建物を建てるのがせいぜいだった。
さて、その墨俣城址だが、洪水や戦後のたび重なる河川改修の結果、元来の城跡は大半が川底に沈んでしまい、遺構は残っていない。だが、その後、城址はさらなる変化に見舞われることになった。平成3年(1991)、白亜の天守が建てられたのである。
4重5階地下1階で、最上階の屋根には金色の鯱が乗るこの鉄筋コンクリート製の天守は、近隣の大垣城天守の外観を模して建てられた。

