天皇家の「家憲」から戦後に一般の法律へ
1889(明治22)年に旧皇室典範が定められたとき、それは天皇家の「家憲」と位置づけられた。家憲とは、それぞれの家で守るべき生活の指針である。たとえば、旧財閥の一つ、三井家には「宗竺遺書」という家憲がある。これは、創業者である三井高利の遺言であった。
旧皇室典範が家憲である以上、それは官報には掲載されず、同時に制定された大日本帝国憲法とともに官報号外に掲載された。旧皇室典範は法律ではないので、当時の帝国議会で審議して、改正ができるものではなかった。したがって、旧皇室典範は、その後、増補はされたものの、本文は一度も改正されないまま戦後を迎えた。
戦後になると、旧皇室典範は廃止され、1946(昭和21)年に日本国憲法が公布されると、憲法附属法として新しい皇室典範が制定された。これによって皇室典範は天皇家の家憲ではなくなり、国会で改正できる一般の法律となったのである。
その際に、皇室典範ではなく、「皇室法」といった名称が使われていたとしたら、その後の扱いは随分と違うものになっていたかもしれない。だが、「典範」という呼び方が残ったことで、戦前の伝統を引きずる形になった。内容も、旧皇室典範と大きく変わらなかった。新しい皇室典範も、今まで一度も改正されていないのである。
平成に起きた“改正”間近となった出来事
ただ一度だけ、皇室典範の改正が行われそうな出来事が起こった。それは、現在の上皇が譲位したときのことである。
平成の時代の最後、まだ天皇の地位にあった上皇は、高齢になり、象徴としての天皇の役割を十分に果たすことができなくなってきたとして、譲位を希望した。
現在の憲法の下で、天皇は「国政に関する権能を有しない」とされている。したがって、天皇が自らの進退について意見を述べることは、それに反する。そのため、扱いが難しい事柄になり、それについて検討する有識者会議が設置された。
皇室典範においては、その第四条において、「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」と規定されており、生前に譲位することは想定されていない。それは旧皇室典範でも同じだった。ただ、それが古来の伝統というわけではない。
明治時代以前には、天皇が生前に譲位することは当たり前に行われていた。譲位した天皇は58人で、全体の半分近くにのぼる。平安時代に、藤原摂関家に代わって上皇が「治天の君」として権力をふるったのも、譲位を利用してのことだった。
しかし、明治に時代が変わると、天皇は亡くなるまでその地位にとどまることとなった。大正天皇が病によって天皇としての役割を果たせなくなったときにも、譲位することはなかった。これは日本国にとって危機だった。

