謙信が生涯不犯を通したワケ
義輝とは将軍・足利義輝のこと。前嗣とは近衛前久、また景虎は謙信のこと。
確かに文中には「少弼(景虎)は若もじ(若衆)数寄の由、承り及び候」とあるが、これは「謙信も若衆が好きだと聞いていますよ」という噂を書きとめたにすぎない、と山田氏は同書で述べている。
おそらく謙信が生涯不犯を通したのは、仏教(ことに毘沙門天)に帰依していたからだろう。
幼い頃、名僧・天室光育の薫陶を受けて深く仏教を崇敬し、京都大徳寺に参禅したり、二度も高野山へ参詣しており、45歳のときには剃髪している。
武田信玄が16歳の少年に宛てた恋文
一方で、しっかり一次史料に同性愛指向が残る武将がいる。それが上杉謙信のライバルである甲斐の武田信玄だ。
信玄が20代のときに6歳年下の春日源助(源五郎)に与えた恋文が東京大学史料編纂所に残っている。
恋文というより、ちょっと驚くが、ほかの男性との浮気を源助に弁解する手紙である。その内容を簡単に紹介しよう。
「確かに私は、弥七郎にたびたび言い寄ったが、彼は腹痛だといって、ついに私は思いを遂げることはできなかった。これはウソではない。これまでも弥七郎に夜伽をさせたことはただの一度もない。
とくに今日は、庚申の日(庚申待。神仏を祀り、皆で徹夜をする習俗)なので、彼に伽をさせることはできるはずもない。どうか、私のことを疑わないでほしい。神仏に誓うよ。もしこの話が偽りなら、私は神仏の罰を受けてもかまわない」
信玄の地位を不動にした元カレ
こう記し、最後のほうに大明神や八幡大菩薩、諏訪上下大明神などの名がずらずらと書かれている。おそらく恋人の源助が、いきなり信玄の浮気を疑って事実かどうかを迫ったので、慌てて書いたのだろう。
本来なら起請文なので牛王宝印という専用紙の裏に記すのだが、その暇もなかったようだし、文章も言い訳を重ねて見苦しい。
このとき信玄は22歳の青年。源助は16歳の少年で、のちに彼は武田氏の重臣となり、高坂弾正虎綱と名乗る。武田信玄の事蹟を称えた軍学書『甲陽軍鑑』は、この高坂が大部分を執筆したといわれている。
つまり、名将としての信玄の地位を不動にしたのは、かつての恋人だったわけだ。なんとも面白い。

