「特等席」でジャッジする若者が自分自身を苦しめている
私たちはいつから、他者の人生を「結果」だけで採点する審査員になってしまったのでしょうか。
画面越しに「誰かの人生」を見届け、特定の言動を「正解」「不正解」とジャッジする。ただその瞬間はエンタメとして受け取っているだけなのかもしれません。しかし、そこで気づかないうちに積み上げられた無数の「判定」は、いつの間にかネット上の強固な「普通」を作り上げています。
画面の中の可視化された成功例はネットのなかで正解を生み出し、私たちを常に「選ぶ側」の席に座らせようと誘惑します。
他者を厳しく審査すればするほど、その刃は知らぬ間に自分にも向けられていくのです。「この時代はこうあるべき」「これは普通ではない」――。ネットが作り上げた「正解」の基準が、いつの間にか自分を追い詰め、失敗や不器用さを許さない「透明な檻」となって自分を閉じ込める。他者を審査する特等席に座っているつもりが、実は自分自身が「正解」という名の呪縛から一歩も動けなくなっているのです。
情報の氾濫によって可視化された「正解」を追い求め、他者も自分も裁き続ける。その効率化の果てに待っているのは、合格者が出ない、生きづらい世の中です。
「審査員」という役割を降りることは、容易ではありません。しかし、皮肉にもその「非効率」の先こそが、「より効率的な答え」に辿り着くための、唯一の近道なのではないでしょうか。

