サントリーのウイスキーが定着

戦後、「安くてもしっかりした品質のお酒を」との思いから昭和21年(1946年)に「トリスウイスキー」を発売。高度経済成長期には「トリスバー」が全国に広がった。昭和25年(1950年)には「サントリーオールド」、昭和35年(1960年)には最高級品「サントリーローヤル」を発売し、日本にウイスキー文化を根付かせた。

昭和36年(1961年)、82歳で会長に退いた信治郎のもとに、次男・佐治敬三がビール事業への進出を相談に訪れた。信治郎は「人生はとどのつまり賭けや。やってみなはれ」と申し渡したという。この「やってみなはれ」は信治郎の姿勢を象徴する言葉として広く知られるが、必ずしも同時代の史料に頻出する言葉ではなく、後世の企業広報によって象徴化された側面もある。しかし、国産ウイスキー製造という前人未到の事業に踏み出した信治郎の判断は、まさにこの精神を体現するものだった。

82歳で引退、翌年に大往生

昭和37年(1962年)2月20日、鳥井信治郎は死去。享年83。くしくもその約2週間前、ヌードポスターのモデル・松島栄美子が40年前の自分の姿を新聞で発見し名乗り出ていた。信治郎の死を知った松島は往時を懐かしんだという。

信治郎の死後、寿屋はサントリーへと社名を改め、「山崎」「響」「白州」といった銘柄が誕生。「マッサン」放送の年には「シングルモルトウイスキー山崎シェリーカスク2013」が『ウイスキー・バイブル2015』で世界最高のウイスキーに選ばれた。母から受け継いだ無私の精神、本物へのこだわり、そして竹鶴との出会い。信治郎の挑戦は、100年の時を経て実を結んだのである。

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